北本市史 通史編 自然

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第1章 北本の地形

第2節 大宮台地の形成と北本

3 台地を被う火山灰

ー三万年前〜ー二万年前の下末吉海進(しもすえよしかいしん)の最盛期に、広大な古東京湾の海底にあって大量の土砂を堆積してきた関東平野は、地球の寒冷化が進み海面が後退を始めた一〇万年前ごろには次第に陸域を拡大した。
六万年前〜五万年前に顕在化した最終氷期は、陸地に大蛍の氷河を発達させ海への水の供給を減じて海水面を急速に低くし(氷河性海面変動)、古東京湾の水際を後退させ今の東京湾の形態に近づけ関東平野を誕生させた。
海底から姿を現わしたばかりの関東平野は、まだ各地に多くの湿地を残しながら、上流河川が大扇状地(だいせんじょうち)を形成し延長河川は乱流を繰り返して低地や自然堤防状の微高地を形成した。このような環境の関東平野に対し、箱根火山や富士山の数百回にも及ぶ激しい噴火活動によって噴出した火山灰や軽石が、卓越(西)風にのって運ばれ降下堆積して数メートルの厚さに達する関東ローム層を載せる台地を発達させた。
本来ロームとは、土壌(どじょう)の粘土組成名(そせいめい)(砂と粘土の割合で区分し、砂土・砂壌土・壌土(ローム)・埴壌土(しょくじょうど)・埴土(しょくど)に分類される)であり壌土と呼ぶべき土壌にあたるが、関東平野全体に堆積する火山灰層を特に関東ローム層と呼ぶことが定着している。
関東ローム層の起源やその堆積環境等の研究は、多田(ー九四七)らが武蔵野段丘(むさしのだんきゅう)と立川段丘上のローム層の厚さに数メートルもの差があること、武蔵野ローム層中に異なる時代の二層のロー厶層が堆積することなどを明らかにして以来注目を集めるようになった。
昭和二十八年(ー九五三)ころから始まった関東口—ム研究グループの組織的な調査研究は、飛躍的な研究成果をもたらした。彼らによって、武蔵野台地や周辺台地に分布する関東ローム層は四層に区分され、古い順に多摩(たま)ローム層,下末吉(しもすえよし)ローム層・武蔵野ローム層・立川ローム層と命名された。
一般に、古い段丘ほどローム層は厚く堆積している。それらは、過去七〜八万年間に数百回となく繰り返されてきた富士山や箱根火山等周辺火山の噴火によってもたらされたテフラ(火山噴出物で、固体として地表に噴出する物質の総称・火山灰や軽石等)が、卓越西風にのって運搬され降下堆積したもので、長い間に風化と酸化作用を受けて黄褐色の土層に変わったこと等が明らかにされた。これらの事実は、わが国洪積世(こうせきせい)火山灰層の標準を示し、その後の各地の火山灰研究に大きな影響を与えてきた。
最古の多摩ローム層は、狭山丘陵(さやまきゅうりょう)や多摩丘陵・大磯丘陵に二〇〜一五〇メートルほど堆積する。その主たる噴出火山は箱根火山と考えられ、下限は四〇万年前の箱根古期外輪山(こきがいりんざん)形成時代にまでさかのぼる。
下末吉ローム層は、下末吉海進の海が進入し堆積した海成層やその後の海退途上の三角州(さんかくいす)や海浜堆積物で構成される下末吉面上に堆積した火山灰で、一三万年前〜六万年前の時間が推定される。南関東の台地の中で最大面積を占める下末吉段丘の広がりは、下末吉海進期の古東京湾の進入範囲を示すものとなっている。
市域の西北端部の北袋付近の高位台地面では、洪積世の古砂丘である硬砂層(本節第一項)の上位に、オレンジ色をしたクリヨウカン軽石Kup(自然Pー二・横浜市三沢付近のローム層中や千葉県松戸付近のローム台地下に堆積する降下軽石・七万年前より新しく、六万年前より古いとされる)をー〜ニセンチメートルの厚さでほぼ水平に包含(ほうがん)する下末吉ローム上部層が覆い、暗褐色で割れ目の著しいクラック帯が発達している。

図4 北本市北袋付近の台地の露頭

(『市史自然』P15より引用)

図5 北本市荒井付近の台地の露頭

(『市史自然』P15より引用)

このクラック帯の上には、武蔵野ローム層の鍵層(かぎそう)をなす東京軽石TP(約四万九〇〇〇年前に箱根火山噴出)を所どころにレンズ状に包みこんだ武蔵野ローム層が載り、さらに上位には立川ローム層と薄層の大里ローム層が認められる。
立川ローム層は、現在の富士山の下に姿を隠している古富士火山の度重(たびかさ)なる噴火によってもたらされた火山灰である。降灰活動の長い休止期間や堆積速度の遅い時期の植生環境下において形成された埋没腐植土の暗色帯が発達することが特徴(とくちょう)である。武蔵野台地の立川ローム層には二枚、与野支台(浦和市中島等・細野ー九八四)では三枚の暗色帯が発達するが、市域の台地には一枚しか認められずこの相違については明らかでない。
北袋・荒井・高尾の台地では、立川ローム層の暗色帯と黒ボク土(腐植に富む黒く粗しょうな土壌・後氷期の温暖な気候が、相対的に森林植生を密にし、沖積世火山灰に働きかけて形成されたと考えられる)にはさまれて、普通輝石(きせき)とシソ輝石(両輝石と呼ぶ)の多いロー厶層が堆積する。
このローム層は、浅間山の噴火を起源とする大里ローム層で、堀口(ー九七九)によれば、大宮台地や埼玉県北部から北西部に分布し、立川ローム上部層に対比でき洪積世と沖積世(ちゅうせきせい)の時代的境界にほぼ相当するという。
石戸宿・髙尾・荒井の台地では、細野の検鏡(自然P四四)によって、大里ローム層の下部の暗色帯直上に、ガラス質の姶良(あいら)Tn火山灰層が検出され、黒ボク土の下位に位置する大里ローム層最上部には、関東平野の洪積世最末期の指標(しひょう)火山灰層である立川上部ガラス質火山灰層UG(ー万二〇〇〇年前の浅間山起源の可能性)も確認された。
市内の台地に見いだされるTP(東京軽石)・AT(姶良Tn火山灰)は、広い範囲にわたって分布する降下年代の明らかなテフラ(町田・ー九八二)で広域テフラと呼ばれ、地層や地形面の対比・同定・編年上の最も有効な鍵層となっている。広域テフラは他に、下末吉ローム層中のPm-1(御岳第一軽石(おんたけだいいちかるいし)・約八万年前に木曽御岳山から噴出)、DKP(大山倉吉軽石・三〜四万年前に大山噴出)、KP(鹿沼軽石・三万二〇〇〇年前に赤城山噴出)、Ah(アカホヤ火山灰・五〇〇〇〜六〇〇〇年前に鬼界(きかい)カルデラより噴出)等が知られている。

図6 日本の代表的な広域テフラの分布

(新井1979・町田1977より作成)

市域ではもちろん、関東平野全域で立川ローム層の暗色帯の直上に見ることができるAT(姶良Tn火山灰)は、鹿児島湾北部の長大な姶良カルデラ(直径二〇キロメートル)から二万二〇〇〇年前ごろに噴出し、ー〇〇〇キロメートルを越えて遠く青森まで降下堆積したもので、日本の火山の最大規模の噴出物と考えられている。
ATを噴出した姶良カルデラの活動は、富士山や箱根火山の活動とは比べものにならないほど巨大で、その規模は、箱根火山が一〇万年以上もかかってつくりあげた古期外輪山(こきがいりんざん)の山体の大きさに匹敵(ひってき)し、八万年の間に降り積った富士山起源のテフラ(関東ローム層上部)の容積とほぼ同じであるという(町田・ー九七七)。
荒井・高尾を中心とする市域西部の海抜高度三〇メートルに達する高位台地面は、関東平野誕生後まもなく大宮台地のどこよりも早く離水環境を整え、台地形成への過程を歩み始めたのである。
自然堤防状の高まりや古い河畔砂丘(かはんさきゅう)の微高地には、箱根火山から次々とテフラ(下末吉ローム層)が飛来して降下堆積し、数百回も繰り返した古富士火山の噴火が武蔵野ロームや立川ロームを台地上に厚く積みあげた。
暗色帯で示唆される降灰休止期(または静穏期)に生成された埋没古土壌は、浅間山から噴出した大里口—ム層に被われ、二万二〇〇〇年前ごろにははるか遠く離れた姶良カルデラからの火山灰も飛来し洪積世火山灰台地が完成した。
関東各地で、洪積世火山灰土の上部に発達する黒ボク土(黒褐色の腐植土眉)の中部水準からアカホヤ火山灰(六〇〇〇年前ごろ、鬼界島(きかいじま)カルデラ噴出)が検出され、また富士山至近の厚い黒ボク土上部に富士山宝永火山(ほうえいかざん)のスコリア質テフラや五〇〇〇年前ごろの粗粒火山灰層が何層も認められることなどから、沖積世火山灰が母材となって黒ボク土が生成されたと考えてよい。黒ボク土は、後氷期の温暖な気候下の森林植生の密な時代に、腐植が多量に集積して生成された(町田・ー九七七)とする考え方が妥当であるように思われる。
富士山最大級の噴火であった宝永四年(一七〇七)の噴火(十二月十六日〜十二月三十一日)の降灰は二〇〇回くらい繰返され、武蔵野ローム層や立川ローム層に匹敵(ひってき)する(貝塚・ー九八一)こと、沖積世火山灰層(黒ボク土)は、表土として耕作され攪拌(かくはん)によって乱されていること、洪積世末のテフラの堆積速度は大宮台地南部の浦和で一〇〇〇年当たり三〜九センチメ—トル(町田・一九七七)と極めて小さい値が推定されていることなどの事実から考えると、沖積世火山灰の詳(くわ)しい資料の収集は相当に困難を伴う問題であることが明らかである。
しかし、江戸時代の碩学(せきがく)新井白石が残した『折たく柴の記』に「……此日午の時雷の声す。家を出るに及びて雪のふり下るがごとくなるを見るに白灰の下れる也。西南の方を望むに黒き雲起りて、雷の光しきりにす……此日富士山に火出て焼ぬるによれりという声は聞えたりき、これより後黒灰下る事やまずして十二月の初におよび九日の夜に雪降りぬ」とあるように、最初は白色、後に黒色の火山灰が江戸に降下した(江戸では六〜九ミリメ—トルの厚さで積もったといわれている・貝塚ー九八一)ことを認めれば、今後の調査によって沖積世火山灰に関する資料の収集がある程度期待できるものと考える。

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