北本市史 通史編 原始
第2章 豊かな自然と共に
第4節 集落をつくる
居住人数と家族表1 市内の縄文時代の住居跡の面積と居住人数
遺跡・遺構名 | 時期 | 面積(平方メートル) | 居住人数(人) |
---|---|---|---|
提灯木山遺跡一号住居跡(拡張前) | 加曽利EⅡ | 一三 ・四 | 三・四 |
(拡張後) | 加曽利EⅡ | 一九・五 | 六 ・五 |
提灯木山遺跡二号住居跡 | 加曽利EⅡ | 一〇・九 | 二・六 |
提灯木山遺跡三号住居跡 | 加曽利EⅡ | 一一・四 | 二・八 |
八重塚遺跡八号住居跡 | 加曽利EⅡ | 一九・三 | 五・四 |
氷川神社北遺跡二次一号住居跡 | 加曽利EⅢ | 一八・六 | 五・二 |
上手遺跡 J一号住居跡 | 加曽利EⅣ | 一四・六(入口部を除く) | 三・九 |
上手遺跡 J三号住居跡 | 称名寺 | 一三・七 | 三・六 |
一軒の竪穴住居に住んでいたのは五〜六人となり、夫婦と子どもを中心とした核家族的な構成が浮かびあがる。今日の世帯に似たものであった。出土埋葬人骨をもとに分析した研究では、一夫一妻からなる単婚家族の他に二種類の複婚家族を想定している。が、一般的ではなく、東日本の縄文時代の家族は、単婚家族を基本としている。親族の関係では、父方(血族)と母方(姻族)の双方にひろがる親族の系譜(けいふ)をたどることができ、双方と行き来する双系制が一般的であったと推定されている。
市域で調査した住居跡の面積と居住人数を計算すると、表1のようになる。おおむね両親とその子どもとからなる核家族を想定してよさそうである。