北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第5節 生活を豊かにした道具

食料獲得に係わる道具

図16 網の錘と石槍 宮岡氷川神社前遺跡・氷川神社北遺跡

森の中でのイノシシ狩りや、川や沼での投網打ちに威力を発揮し、獲物は食卓を賑わした。

縄文時代は基本的に狩猟採集社会である。生産道具は、すなわち食料獲得のための狩猟と採集のための道具が圧倒的に多い。狩猟に使う道具には槍と弓矢がある。イノシシ狩りなどに威力を発揮したであろう槍は、旧石器時代末から草創期(そうそうき)にかけて発達し、縄文時代を通じて使用されるが、早期以降は量的に多くなかった。図16は下石戸下の氷川神社北遺跡から出土した前期の槍先である。軟質の石材で、実用品ではなくまじない用かもしれないが、珍しい例である。弓矢は矢の先に付ける石鏃(せきぞく)がたくさんでてくるので主要な狩りの道具であったことが分かる。縄文時代を通じて作られている。無茎(むけい)のタイプから始まり、後期になると有茎のタイプが出てくる。重さは小は〇・ーーグラムから大は二〇グラムを超える。ー ・五グラム前後の鏃(やじり)が多い。石鏃の大小は獣や鳥といった狩りの対象生物の違いである。矢柄(やがら)は残っている例はまれで、細い枝や篠竹を利用していたであろう。草創期には矢柄をまっすぐにしたり磨いたりするときに使う矢柄研磨器(やがらけんまき)という特殊な石器があるが、早期以降は使われなくなっている。弓は丸木のままで、長さがニメートル前後の長弓(図11)と、ーメ ートル前後の半弓とがある。材質は埼玉県ではイヌガヤを多く使用している。また、飾りの無い実用の弓と、まじない用の飾り弓とがある。石鏃に使われる石材は黒耀石(こくようせき)とチャートがほとんどで、晩期には石英(せきえい)なども使われるがまれである。狩りは、しのびよったり、待ち伏せたり、追い立てて弓を射たり槍を投げたりしたのである。また、施設とした方が適当な落し穴がたくさんみつかっている。落し穴やワナは、イノシシの直進性や、獣道(けものみち)と呼ぶように同じ所を通る性質を利用した施設であり、自然に懸(か)かるのを待つばかりではなく、追い立てても利用していただろう。直接狩りに使う道具ではないが、笛も狩りの折りに使ったことであろうし、犬も狩りには重要な役割をはたしていた。
漁撈(ぎょろう)に使う道具には、網・ウケ・ヤス・モリ・釣り針がある。市域周辺の内陸部では河川漁撈であり、網漁が主体であったろう。網の実物は残っていないが、錘(おもり)がみつかるので網の存在がわかるのである。錘は石製と土製と土器のかけらを利用した土器片錘(どきへんすい)とがある。投網(とあみ)用の錘である。小河川ではウケも使っている。現東京湾周辺の貝塚からは、骨製ヤスが早期から見つかっているし、釣り針も見つかっている。釣り針は後期になると組合せ釣り針も使用している。東北地方では晩期になるとモリを多量に使用している。前期以降には丸木舟と權(かい)がある。河川や湖沼地帯(こしょうちたい)では盛んに使われたであろう。対岸へ渡る交通手段であろうし、漁にも当然使われたのである。
採集に使う道具には、掘り棒と打製石斧(だせいせきふ)がある。根菜類(こんさいるい)を掘り出す道具である。明確に掘り棒と分かる棒が見つかっているわけではないが、掘り棒は先端さえ尖っていれば何でも良く、当然手近にあるにぎりやすい枝を使用したであろう。多量に出土する打製石斧は、かつては斧としての用途が考えられていたが、最近ではむしろ土堀り具としての用途が主と推察されている。長い柄を付ければ鍬(くわ)になり、短い柄を付ければ手鍬として使うことができる。もちろん木を伐ることも可能であるし、多機能な石器である。早期は自然の拳大(こぶしだい)の石の周辺を打ち欠いた礫器が主であり、中期には短冊(たんざく)形が主となり、後期には分銅形に変化する。
この他に運搬道具と限定はできないが、採集した食料を運搬した道具があるはずである。縄文時代は組物の技術が発達しており、竹や蔓(つた)を使用したザルやカゴの類が使用されていたであろう。運搬用にも保存用にも使う道具である。丸木舟は漁撈具でもあり、集落へ獲物を運ぶための運搬具でもある、広く交易するときの交通・運搬具として使用した道具の一つである。

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