北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第6節 まじないと信仰

縄文人の心
私たちは<雷は電気現象>であることを知識として知っている。雲の上部がプラスに、下部がマイナスに分かれ、電気がたまるとピカピカとなる雷が起こる。この電気が、空気中に火花を散らしながら大地に流れ込むのが落雷である。こんな知識があったところで、多くの人にとって<雷はこわい>の気持ちは捨てきれないのではないだろうか。直接体験しなくとも、落雷で折れた立木を見たことがある人も多いであろうし、あるいは毎年平均三〇人近くの人が死亡することも知っているし、なによりも闇を引き裂く稲光(いなびかり)と耳をつんざく雷鳴(らいめい)は、私たちをも充分に恐怖におとしいれる。まして科学的知識の乏(とぼ)しい縄文人たちは、自然の現象をどのようにとらえていたのだろう。雷・地震・雨・雪・風・寒暖・火事・火山の噴火、そのどれもが度を越すと大きな災害になり、生き死にの問題になるのである。また、重い病の折りはどうしたろう。世界各地の未開社会の事例が示しているように、縄文人たちも人知を超えた<力>がなす技ととらえていたに違いない。一方、豊かな食料に恵まれること、結婚すること、赤ちゃんが生まれること、適度の晴雨や寒暖が巡ってくることなども、災害と同じ根源から起こるものと考えていたはずである。好事も、禍々(まがまが)しいこともともにその<力>によるものであり、その力は、<神>の概念でとらえてよいと考える。一木一草(いちぼくいっそう)にやどる<原始の神>である。荒ぶる神であり、 豊穣(ほうじょう)をもたらす神である。だから時には神に感謝し、時には神をうらみ、時には神に頼み、時には神の心を和(やわ)らげる儀式が生まれてくるのである。広い意味で儀式を<まじない>あるいは<呪術(じゅじゅつ)>という。原始のまじないである。遣跡からはそうしたまじないに使用したさまざまな道具が出土する。道具ばかりではなく、ストンサークルなど遺跡自体が壮大なまじないの装置であることもある。

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