北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第7節 地方との交流と交易

土 器
土器そのものも遠隔地から運ばれてきたものがある。市域では北袋古墳群I (原始P三〇三)から前期後葉の浮島(うきしま)Ⅱ式土器が一片出土している。これは霞ヶ浦(かすみがうら)周辺が主たる分布域の土器である。宮岡I遺跡(原始P三六〇)では、 前期末の籠畑(かごはた)Ⅱ式の大形破片が出土した。籠畑式は長野県の南半が主たる分布域である。前期末は、遣跡の数・土器の出土量・住居跡の発見例いずれもが極端に少ない時期で、停滞期と認識する時期なのに、遠く南信地方からの土器が入り込んでいるのは注目しなければならない。中期前半の阿玉台式土器(あたまだいしきどき)は、大宮台地では勝坂式土器(かつさかしきどき)と必ず一緒に出土する土器で土器そのものは珍しくはないが、千葉県から茨城県辺りが濃密に分布している地域である。やはり運ばれてきたものである。宮岡氷川神社前遣跡(原始P三七九)から晩期の大洞式土器(おおぼらしきどき)が出土している。大洞式土器は東北地方に分布している土器で、多量に南下し、遠く奈良県にまで運ばれ出土している。
この他製品が入った状態で運ばれた土器がある。晩期のきれいな土器に混じって器壁の薄い無文土器が出土する。この土器は塩を作るために特別に作られた土器である。千葉・茨城両県辺りの海岸部地域で、海水を何度も煮つめて塩を作るときに使用された製塩土器である。土器の内側に塩がこびりついた状態で交易品として運ばれたものである。製造具がそのまま運搬具となった珍しい例である。器壁が薄い土器で、壊れやすく完全な形ばかりでなく、破片の状態でも交易品になっていたかもしれない。猿のいわゆる蚤取(のみと)り行為は、実は体表面に結晶した塩を取っているのである。人も塩が必要なのである。縄文人たちは動物の血を飲み塩分を取っていたのであろう。そのほか調味料としても重宝(ちょうほう)したであろうし、なによりも保存食を作るときに必要であった。

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