北本市史 通史編 原始

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第2章 豊かな自然と共に

第8節 縄文人の一生

上手遺跡の埋甕は胎盤を埋納した壷
縄文人はどのようなー生を送ったのだろうか。
まず、誕生。どの様にたくましく、狩りの名人で集落中から尊敬されるような男性であっても、頑張ったところで子を生むことはできない。女性だけがなし得る崇高(すうこう)な役割である。受胎後、どのように過ごしたのかわからないが、今日の着帯のように、体を大切にすることは知っていたであろう。家族からも大事にされたはずである。子どもが無事生まれることは獲物がたくさん採れることと共通のとらえ方をしており、家族の繁栄につながることなのである。妊娠中の女性を模した土偶がある。直接安産を願ったものではないにしろ、女性の状態を熟知し、リアルに模している。

図20 上手遺跡J1号住居跡平面図と入口部埋設土器

古市場の上手遺跡(うわでいせき)(原始P五九八)J一号住居跡は、張り出し部のある柄鏡型住居跡(えかがみがた)である。この張り出し部に、土器が埋めてあった。それも深く埋めるのではなく、床面から少し出るように埋めてあった。張り出し部は住居の出入口である。通るたびについ踏みつけてしまい、出入りにとてもじゃまになるはずである。これはあきらかに踏みつけることを目的として埋めているに違いない。「出入口でわざわざ踏みつける」といえば、高齢の方々には思い当たる節があることだろう。これは今日でも続いている胎盤(たいばん)を埋める習俗の原初の形だったのである。赤ちゃんを出産後、しばらくして後産があり、胎盤が出てくる。今日ではこの胎盤は「エナ屋さん」が来て処理したり、敷地の一角に「エナ塚」を作って埋納したりするが、日本中で広くみられる習俗は「入口に埋める」という方法である。一般的に「多くの人に踏まれれば踏まれるほど元気に育つ」と信じられている。こうした埋甕(うめがめ)の例は中期の後半にまで遡(さかのぼ)るから、二五〇〇年も前から続けられている誕生に伴う厳粛(げんしゅく)な習俗なのである。後産は、滞(とどこお)れば母胎に深刻な影響を与え、侮ることはできない。後産も含めて<出産>なのである。今日懐妊し、出産近くなると、底抜けの柄杓(ひしゃく)を神社へ奉納する習俗が広く見られる。県内では秩父地方で行われている。これは柄杓の底が抜けているように<スポッ>とお産ができるように奉納すると伝えている。この底抜けの柄杓のルーツとなる話が、中世文学の代表作である吉田兼好(よしだけんこう)の『徒然草(つれづれぐさ)』六一段に載っている。後産が滞るときに行うまじないとして、甑(こしき)を落として割ることが記録されている。甑は米作りが一般化した弥生時代に生まれた道具で、底の無い器形である。こうしたまじないが弥生時代まで遡る可能性が秘められていよう。さらなる原始の形として縄文時代の胞衣(えな)を埋納する土器に行き着くのではなかろうか。縄文時代にお産に係わるまじないがあったのかあるいはなかったのかすら不明であるが、胞衣を丁寧(ていねい)に扱っていることからすれば、なにがしかの<縄文的まじない>がおこなわれていたと推察する。無事に生まれること、元気に育つこと、人の親としての心は、今も何ら変わることなく続いているのである。

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