北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第3節 大宮台地に到来した弥生文化

新技術の流入―池上(いけがみ)・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)―

図28 池上・小敷田遺跡群の土器

壺・甕の区別なく煩わしいほどに器面が飾られている。

北本市から北に約一五キロメ—トルほど離れた所、ちょうど熊谷市と行田市の境界付近で、国道ー二五号のバイパスが建設されることになり、工事に先立つ発掘調査を埼玉県立さきたま資料館が実施した。その調査が進むにつれて、水田の下から関東地方で最古の弥生のムラが姿を現した。その後、交差する国道十七号バイパスの拡幅エ事(かくふくこうじ)でも遺跡のつながりが確認され、この遺跡の全体を総称して池上・小敷田遺跡群と呼んでいる。遺跡から出土した土器は、この地方の弥生人たちが、中部・東海地方からの影響を受けつつも独自色を発揮(はっき)して成立させた姿をしており、弥生時代中期の中ごろにあたる。この遺跡の発掘は、様々な点で画期的な情報をもたらした。
蛇行する小河川沿いの微高地に点在する二五軒の住居群とそれを区分する溝、三基の方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)や多数の土壙(どこう)など、そしてこれらの遺構から多量の土器とともに大陸系磨製石器や打製の石鍬(いしくわ)、糸を紡(つむ)ぐ紡錘車(ぼうすいしゃ)が出土したほか、住居跡内からは貯蔵中にこぼれたのであろうか多量の炭化した米が出土し、実際に米を食糧としていたことを実証した。また、プラント・オパール分析によって水田跡の存在も確かめられた。
確かに米作りの関東地方への伝播(でんぱ)は、今日では弥生前期にまで遡(さかのぼ)りうることは確実である。しかし、猿貝北遺跡や白旗本宿遣跡でも断片的な土器の破片が見つかっているだけで、この時期の大宮台地の当時の生活の様子はほとんどわかっていない。その点、池上・小敷田遺跡群は、当時の弥生のムラの様子を非常に良く伝えてくれる。とりわけ方形周溝墓という墓制や土器の製作に刷毛目(はけめ)と呼ぶ木の小口を使用する手法、靑銅器、大陸系磨製石器など、弥生時代を特徴づける多くの要件がこの時期に揃(そろ)っていたことを実証したことは重要な意味をもつ。
中でも注目されるものに打製の石鍬(いしくわ)と穂摘具(ほつみぐ)がある。このムラでは、木製農耕具を製作する工具である大陸系磨製石斧の出土が少ないかわりに、打製の石鍬が多く出土し、耕作や掘削用(くっさくよう)として多用されていたらしい。稲の収穫にも西日本で一般的な磨製石包丁ではなく、打製のそれであった。打製の石鍬から畑作や陸稲を想定する研究者もいる(『遣跡が語る古代の日本―関東―』春成秀爾(はるなりひでじ))。立地や気候、受け入れた生業の種類や経路、さらに伝統的な道具類の活用などさまざまな理由が存在したであろうが、いずれにしても関東地方で行なわれていた米作りは、輸入元の西日本の各地と全く同じというわけではなかったらしい。

図29 弥生の石器 池上・小敷田遣跡群

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