北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第4節 ムラの姿と生活

住まいと倉庫
今から一七〇〇年ほど前のこと、一つの家族が南からやってきて旧入間川沿いに北へと遡(さかのぼ)りながら 新しく生活する場所を探していた。家族といっても親兄弟やその夫婦を含む大きな家族である。そのうちに、誰かが川の東側に三方を谷に囲まれた見晴らしの良い高台を見つけた。谷から湧(わ)き出る水も豊富で、米作りに適した低地も西側に広がっている。当時の幹線道路であった旧入間川も目の前だ。舟を岸辺につけると高台の上を切り開き、家々を建て、ひとつのムラを作った。陽当たり良好・交通至便、絶好の転居先である。やがて暑い夏が過ぎ秋になると黄金色に輝く 一面の穂波が高台の上から見下ろせた。
その高台は、現在では市内の荒井地区に当たる。より良い居住環境を求める気持ちは、現代人も弥生人も少しも変わりはない。当時の住まいのようすを今から一七〇〇年前、弥生時代の終わりごろの市内に暮らした八重塚(やえづか)のムラに垣間(かいま)見てみよう。

図31 竪穴住居の様子(推定図)

図32 八重塚のムラの復原(高橋もえみ図)

八重塚の高台では、昭和六十一年(ー九八六)に市教育委員会による発掘調査によって、六軒の竪穴住居が発掘された。当時の住居は、縄文時代以来の伝統を引き継いだもので、地面を掘り下げた上に柱を立て屋根を乗せたものである。八重塚遺跡(原始P四四七)B区の四号住と名づけられた住居跡をみると、掘り下げた穴は四隅が丸くなった長方形をしている。柱の穴は四か所、つまり四本の柱で梁(はり)を支えていたのだ。このムラでは、柱などの木材は腐ってしまって何も残っていなかったが、先に紹介した池上・小敷田遺跡群(こしきだいせきぐん)の弥生時代の住居跡では、四本の柱の根元がそっくり残っていて、木の繊維(せんい)を顕微鏡で観察する樹種同定分析によって、どんな種類の木材を使用していたのかが明らかになった。それによると四本の柱には、イヌガヤやキハダ、ヤマグワなどの水に強く腐りにくい木が使われていた。弥生人たちも十分に適材適所を心得ていたのだ。
柱には桁(けた)や梁をかけ、垂木(たるき)を放射状に巡らして屋根を葺(ふ)いた。屋根は茅葺(かやぶき)だが、最近の調査例から類推すると、茅の上に土を乗せていた可能性が高い。家の入口は原則として一か所、竪穴だから出入りには木の梯子(はしご)を使う。四号住でははっきりしないが、柱間のやや外側の一辺に楕円形の窪(くぼ)みが遺(のこ)されていることが多く、そこが梯子を据(す)えた跡だ。出入口のちょうど反対側に赤く焼けた土がすり鉢状に固まっている部分がある。ここが暖を取るヒーターであり、調理をするコンロであり、明かりを取るライトでもある。間取りははっきりしないが、炉の周囲と柱の内部が居間兼食堂で、柱の外が寝間と考えることもできる。もちろん家の中に風呂やトイレはない。この一軒の家でおそらく夫婦と子供を中心とした小世帯が生活し、兄弟など血のつながりをもった幾つかの小世帯が集まり、あるいはさらにそれに隷属(れいぞく)していた人の家族を含めて、八重塚のムラの大家族を構成していたに違いない。
竪穴住居以外では、倉庫となる高床の建物や貯蔵穴があったはずである。貴重な食糧を保管するムラでは大事な場所だ。しかし、八重塚のムラでは、高床建物も貯蔵穴も見つかっていない。あるいは、この大家族が分かれてきた元の大きなムラが近くにあり、そこでいっしょに保管していたのかも知れない。

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