北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第5節 農耕社会の発達とク二づくり

大宮台地北部の遺跡

図38 大宮台地の弥生時代後期の遺跡

大宮台地は、南部には南関東系の弥生町式土器(やよいちょうしきどき)が分布するが、弥生後期でも前半は遣跡が極めて少なく台地南部に点在する程度で、台地北部にムラが進出するのは後期の中ごろ、弥生町式土器の後半以降のことである。後期前半の大宮台地の遣跡の少なさを、一時的な過疎化現象(かそかげんしょう)がおきたためだと説明する研究者もいる(久ヶ原式から弥生町へ一笹森紀己子)。
台地上のようすをみると、より南に古い土器をもつムラがあることから、南関東系の縄目文土器を使用するムラは、しだいに可耕地を求めながら南から北へと広がっていったことがわかる。今日、大宮台地北部の市域や鴻巣市には、確実に弥生町期といえるムラは見つかっていない。南から北へと進むムラの拡大は、弥生町期の後半段階に大宮市・上尾市・桶川市あたりまで及び、次の前野町期(まえのまちき)の段階になって市域や鴻巣市にまで及んできたのである。

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