北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第5節 農耕社会の発達とク二づくり

堀で囲まれた厶ラ
今、私たちの住んでいる家は、たいていは塀などで隣家と区画されている。自分の敷地を他と区別するためだ。しかし、弥生時代にはムラ全体を堀で区画する時期があった。このムラを区画した堀を環濠(かんごう)と呼んでいる。環濠が作られた時期は、前期や中期にその地方で最初に農耕が開始された時期と、もうひとつは後期になってからである。
愛知県の朝日遺跡では、濠の中に逆茂木(さかもぎ)が置かれて柵や堤の跡も見つかったし、佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)では、見張り用の楼(やぐら)の跡も見つかっている。環濠の多くは、ムラを外敵から守るためのものだったのだ。環濠が盛んにつくられた時期は、それだけ緊張が高まり、身に危険が及ぶ時期だったということであろう。

写真18 環濠集落 岩槻市木曽良遺跡(埼玉県県史編さん室提供)

ムラを囲む溝のようすが良くわかる。

県内では、中期の後半と後期の中ごろの限られた時期に環濠が作られた。中期では、浦和市の明花向遺跡(みょうばなむかいいせき)や和光市の新倉午王山遺跡(にいくらごおうやまいせき)など、後期では与野市の中里前原遺跡(なかざとまえばらいせき)や岩槻市の木曽良遺跡(きぞらいせき)などが代表的な環濠集落である。前に述べた大宮台地でのムラの様子を思い出してほしい。この時期は、ともに台地の上で盛んにムラが増える時期だ。ムラが新しい土地に進出するときには、水争いなどさまざまな軋轢(あつれき)が生じたであろう。全てが平和的に解決したとは考えられない。悲しいことだが、武力に訴えることも少なからず行われたのだ。
弥生時代後期に全国的に環濠が作られたことについては、列島の中で西日本を中心に大規模な戦争が行われたと考える研究者が多い。東日本の弥生のムラが直接この戦争に関与したかどうかはわからないが、同じころに大宮台地の上で環濠が作られているところをみると、まったく無関係であったとは考えづらい。大宮台地の弥生人も好むと好まざるとにかかわらず、社会が大きなまとまりへと動き出す胎動(たいどう)に呑み込まれていったのだ。
しかし、市内にムラが作られ始めた後期末には、新しく環濠が作られることはもはや無かったし、それまでの環濠もほとんど埋まってしまっていて機能していない。後で述べる八重塚遣跡A区一号住出土の土器のように、畿内(きない)や東海西部地域の土器が関東地方に大量に流れ込でくるのは、抗争の原因ではなく結果なのである。

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