北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第7節 古墳時代にむけて

カシラの成長

写真22 卑弥呼の館(大阪府立弥生文化博物館所蔵・提供)

吉野ヶ里遺跡などを参考に推定復元された。

関東地方の場合、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)の中心である方台部に埋葬 された人物はたいてい一人である。その人物はいったいムラの中でどのような地位にあったのであろうか。最近、東松山市で発見された方形周溝墓の人を埋葬した墓穴から銅製の腕輪と鉄剣が見つかった(写真20)。日常の作業をするのに不便な腕輪をつけていた人物は、マツリを司(つかさど)る司祭者のような立場の人物なのかもしれない。もっとも、マツリとマツリゴ卜がはっきりと分かれていない弥生時代では、当然マツリを行う司祭者がマツリゴトにも関与したことであろう。『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)にでてくる耶馬台国(やまたいこく)の女王の卑弥呼(ひみこ)がマツリを司る巫女(みこ)であったことはよく知られている。ところが北九州地方の弥生時代の墓では、豪華な副葬品(ふくそうひん)をもつ墓と腕輪をもつ墓が必ずしも一致するわけではないという。このことは必ずしも、マツリゴトを行う者の全てが、マツリを司っていたわけではないことを示している。いずれにしても腕輪などの副葬品をもつ墓はけっして多くはないから、方形周溝墓の中心に埋葬された人物の全てが司祭者であったわけではない。多くは、家長などムラの中の有力者たちであったのだろう。かれらはムラの指導者たちでもあったに違いない。
関東地方の方形周溝墓は、たいがい同じような規模のものがいくつも溝を接するように集まっている。何代かにわたって造られ続けた方形周溝墓の中に特別に強い力をもった指導者を見いだすことはできない。

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