北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第2節 弥生文化の成立と波及

米の来た道

図24 米の来た道

私たちが毎日食べ、さらに餅や酒など日本人の食文化の基本となっているお米。このお米の故郷は、インド東北部のアッサムから中国雲南(うんなん)にかけての地域といわれている。この地で自生していた稲がやがて栽培されるようになり、さらに美味(おい)しい、保存しやすい、栽培が簡単で収穫率が高い、などの理由から、しだいに各地へと広がっていった。このうち、東へ広がっていった流れが中国の長江(ちょうこう)流域にたどりつき、さらに北上して朝鮮半島南部から列島の九州北部に到逹した。もちろん、中国大陸から直接九州北部やあるいは九州南部に到達した流れもあったに違いない。しかし、稲作とともに伝わったものをよくみると、石包丁(いしぼうちょう)や磨製石器(ませいせっき)、青銅器などいずれも朝鮮半島南部と共通する道具であり、米作りが辿(たど)ってきた道筋を良く示している。最近、九州北部で調査された遺跡の花粉分析の結果では、米以外にもソバやアワなどの穀物も同時に畑作されていたことがわかった。最初の稲作は、単なる技術の伝播(でんぱ)ではなく、農耕の技術や知識をたずさえた朝鮮半島南部の人々が大挙して渡来してきて稲作を開始したのだ。

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