北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第2節 弥生文化の成立と波及

米作りが東へ
九州北部で成立した弥生文化は、瀬戸内海を抜けて近畿へ、九州南部へ、山陰から北陸地方へと海岸づたいにまたたくまに広がっていった。近畿地方一帯へ広まってゆく速さは、半島からの渡来人から始まってわずかにニないし三世代の間だったろう。ところが、最近では、従来近畿地方で縄文の最晩期と考えられていた土器から稲籾(いねもみ)の圧痕(あつこん)が見つかったり、また器の組み合わせの中に伝統的な浅鉢が無くなっているなど弥生文化の影響を色濃く受けていることが分かってきた。弥生文化の広まりはさらに速くなりそうである。また、弥生文化の広まりもまったく米作りと同時だったというわけではなかったらしい。
これまで、近畿地方から東日本への稲作の波及は、西から東へ徐々に進んでいったと考えられていたが、最近、青森県で、近畿地方の弥生土器と良く似た土器が出土し、さらに水田も発見された。このことから、弥生時代前期のうちにすでに東北地方まで稲作が及んでいたことが明らかになった。東北地方の弥生前期の遺跡は日本海側に多く、北陸から海岸沿いに直接もたらされたものらしい。
一方、太平洋側では、近畿地方から東海西部地域に進んだ稲作は、そこで停止し、近畿地方と同じ弥生土器を作る習慣もそこから東へは広まらなかった。これまで米作りの東進には、寒冷に弱い稲の性格によるところが大きいと考えられてきたが、こうした日本海側での様子が分かってくると、米作りの伝播(でんぱ)には、単純に稲の性質や品種の改良といった自然の問題だけでは割り切れない理由もあるとみなければならない。

図25 米づくりが伝わる

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