北本市史 通史編 原始

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第3章 米作り、そして戦争の始まり

第2節 弥生文化の成立と波及

遅かった関東地方への到来

写真16 稲の珪酸体(顕微鏡写真) 坂戸市桑原遺跡(埼玉県立埋蔵文化財センター提供)

珪酸が稲の機動細胞の周囲に付着して残る。残存した珪酸の形によって、細胞の種類がわかる仕組み。

水田や農耕具などが豊富に発掘されている西日本と比ベ、関東地方では遺跡の数も少なく土器以外はほとんど発見されていないため、米作りの証拠を見つけ出すことが非常に難しい。しかも日本海側の様子をみると、関東地方は列島のなかでもっとも遅く弥生文化が伝えられた地域であったことは確実だ。関東各地や南東北地方では、西日本の弥生文化の影響を受けて成立した東海地方の土器が、はるか遠方から運ばれてきて出土することがある。しかも圧倒的に壺が多いことから、稲の種籾(たねもみ)を運搬したのではないかと考える人もいるくらいだ。
最近まで関東地方の縄文時代終末の土器が出土した千葉県の荒海貝塚(あらみかいづか)で、プラント・オパ—ル分析(土中から稲の珪酸体(けいさんたい)を抽出してそこが水田だったかどうかを調べる方法)が試みられた結果、この時期にはすでに水田耕作が行なわれていた可能性が高いことがわかった。ここから出土した荒海式土器と呼ばれる土器は、弥生土器に特徴的な大型の壺は多くないが、縄文土器によくみられる浅鉢(あさばち)が少なくなりつつあり、土器の組み合わせの上からも縄文から弥生へと移り変わってゆく様子が窺(うかが)える。

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