北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第3節 埼玉古墳群の出現と新たな秩序

将軍山古墳の副葬品が示す軍事氏族としての性格
将軍山古墳は明治二十七年(ー八九四)に村人たちによって発掘され、横穴式石室から多量の副葬品が出土している。その多くは東京国立博物館と東京大学に保管されているが、武具、馬具、装身具などのほかに鏡や銅鋺(どうわん)を含み、多種多量の品々から構成されていることを知ることができる。これらの中で特に注目されるのは鉄製の馬胄(ばちゅう)と蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)である。馬胄はさきたま資料館に保管されていた鉄器残欠が接合されて明らかとなったもので、わが国二例目の発見である。高句麗(こうくり)の壁画古墳に馬冑と馬甲(ばこう)を付けた完全武装の武人が騎馬戦を行う場面が描写されており、朝鮮半島系の遺物と見られてきたが、事実、近年韓国の南半部から続々と出土しており、八例ほどが知られる状況と、わが国では今後多数の出土が見込めない現状から見て、半島で製作されたものと考えざるを得ない。蛇行状鉄器も本来、馬冑とセットを成す造物であり、同様に理解されよう。このような特殊な遺物が東国のー古墳から出土することはどんな意味を持っているのだろうか。

図53 将軍山古墳出土馬冑実測図

10枚ほどの鉄板をリベット留めして製作している。

将軍山古墳出土の馬冑は細かい鉄板をリベット留めして製作されている点で、韓国釜山(プサン)市福泉洞(ポクチョンドン)ー〇号墳出土品と共通点が多く、五世紀第三四半期の製作の可能性が考えられる。これは和歌山県大谷古墳(おおたにこふん)出土品や韓国玉田(オクチョン)古墳群出土品などのように鈑金技術(ばんきんぎじゅつ)の向上により鉄板の数を減らした量産型の物と大きく異なる点である。問題となるのは、将軍山古墳の築造年代と大きなギャップがある点である。金井塚良一らが説くように伝世された可能性を考えると、製作後まもなく入手した場合、それは杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)ヲワケの時代と合致することになる。このような品はわが国に居ながらにして入手できるものではなく、朝鮮半島に実際に赴(おもむ)いた者が入手したと考えるのが自然である。その背景には好太王碑(こうたいおうひ)が示す朝鮮半島への倭兵の派遣の事実があろう。一方の馬冑出土古墳である大谷古墳は朝鮮半島派遣軍事氏族として文献にも登場する紀氏の墳墓と目されている。その場合、被葬者は実際に半島で馬胄を入手する機会があったとみてよいだろう。同様に、上毛野氏(かみつけぬし)をはじめとする東国の豪族たちも、半島派遣軍の尖兵(せんぺい)であった可能性が極めて高いのである。このことは文献に語られた上毛野君の半島派遣伝承のほか、東国に半島系の副葬品が顕著であるという考古学的な事実によっても裏付けが可能である。
たとえば、銅鋺はかつて畿内政権による東国の豪族への配布論が唱えられたが、実際は近畿地方からの出土例は極めて稀で、全体の七割が東国から出土しているという事実がある。このことは東国への半島文化が大和王権を介在(かいざい)せずに、もっと主体的に把握できる可能性を提示するものといえよう。銅鋺の一部は明らかに半島製であり、残りも半島から連れ帰った工人の製作と考えられるのである。将軍山古墳出土の馬胄は、杖刀人首として半島へわたったヲワケが入手し、蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)と共にその旗印として代々埼玉の首長たちに伝えられて、その使命を終えた将軍山古墳の段階で墳墓に埋められたものと考えてみたい。

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