北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第3節 埼玉古墳群の出現と新たな秩序

大首長の支配領域の広さ
埼玉(さきたま)古墳群が五世紀後葉から六世紀末まで、武蔵では抜きんでた規模の古墳を築き続けていたことはすでにふれたところである。このことと関係して、埼玉古墳群の成立以前は、本章第二節でふれたように連綿(れんめん)として前方後方墳や前方後円墳を築き続けてきた比企地方の場合、五世紀後葉の段階をもって突然前方後円墳の築造がとだえるのである。具体的には、五世紀前半に全長一〇〇メートルを超える野本将軍塚古墳を出現させながら、六世紀前半には柏崎古墳群のおこま山古墳が全長約六〇メートルの帆立貝式古墳(ほたてがいしきこふん)として存在するに留まるのである。比企地方では、六世紀中ごろには直径九〇メートルの大円墳である甲山(かぶとやま)古墳が築かれるが、前方後円墳の再登場は六世紀後葉のとうかん山古墳の出現を待たなければならない。
一方、児玉地方においては、六世紀の前半代に秋山諏訪山古墳や生野山(なまのやま)一六号墳などの初期の横穴式石室を内蔵する五〇メートル級の前方後円墳を成立させている。注目されるのはこれらの設計型が埼玉古墳群で基本形となっている仁徳陵型(にんとくりょうがた)ではなく、上毛野(かみつけぬ)のものと共通している点であり、横穴式石室についても上毛野の強い影響が認められることである。このことは、児玉地方はいまだ埼玉の首長の傘下(さんか)に属していなかったことを示すものであろう。

図54 日本書紀に残された武蔵国造の争乱伝承(原文の抜粋)

かつて、和島誠一や甘粕健によって俎上(そじょう)にあげられた、南多摩の勢力の凋落(ちょうらく)と埼玉古墳群の成立が安閑紀(あんかんき)の国造内乱伝承を反映しているとされた命題はどう扱うべきであろうか。実は南多摩においては、四世紀代に宝莱山古墳(ほうらいさんこふん)と亀甲山古墳(きっこうやまこふん)が前方後円墳として築造されるが、五世紀第二四半期くらいの段階で、最高首長墓の墳形が帆立貝式古墳(野毛大塚山古墳)に変化し、ついに五世紀後半には直径三〇メ—トル級の円墳(御岳山古墳(みたけやまこふん))にまで縮小するのである。この一連の変化は埼玉古墳群との関係で理解することは不可能であり、大和王権の政治的圧力によるものとみた方が良い。安閑紀の記事によれば、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)は紛争解決の返礼として横見ほか四か所の屯倉(みやけ)を朝廷に献上したことになっており、クラキ、タマ、タチバナは南武蔵に比定されることが知られている。しかし、このことをもって埼玉の首長が南武蔵を傘下に納めていたと理解することは早計であろう。おそらく、南武蔵には早くから名代(なしろ)や子代(こしろ)の設置を通して大和王権の部分的な支配が及んでいたものを、改めて朝廷に献上する形式をとって間接的な支配権を認定されたのであろう。
考古学的に検証できる問題として埴輪の供給の実態も興味深い。埼玉古墳群の大型古墳には莫大な燈の円筒埴輪(えんとうはにわ)や形象埴輪が立てられている。これらの製作地を製作技法や胎土(たいど)を手がかりとして捜し求めると、鴻巣市生出塚(おいねづか)埴輪窯の製品が主体をなしており、埼玉古墳群直属の埴輪窯として供給が行われた可能性が考えられる。しかし、これとは別の特徴を持った埴輪群にはいわゆる白色針状物質(はくしょくしんじょうぶっしつ)が含まれており、南比企丘陵の製作である可能性が極めて高い。器形などからみて東松山市桜山埴輪窯の製品であろう。このことは、埴輪の生産が地域首長によって掌握され、再分配されるものと考えた場合、比企よりも大きな勢力である埼玉にはるばる供給されていることは、貢納的(こうのうてき)な性格を見出して良いものと思われるのである。埼玉古墳群を築き続けた首長たちの支配領域は、おそらく南北埼玉・比企・入間の各郡に及んだが、六世紀の前半の段階では児玉地方を含まず、南武蔵の支配も極めて間接的なものであったと推測されるのである。しかし、一歩一歩国造に値する広大な領域の支配にこぎつけようとしていることは国造制の成立の問題と関連して見のがすことができない。

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