北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第4節 農民と耳飾り ー群衆墳の時代ー

群集墳とは
ある一定の地城内に多数の古墳が集合して分布する形態を群集墳(ぐんしゅうふん)と呼んでいる。群集墳は短期間に古墳の数が急増することと、ごく少数の大型古墳を含んでも、大多数は直径十数メ —トルの小型の円墳であることが顕著な特徴であるということができる。具体例として、東日本では長野県の大室古墳群(おおむろこふんぐん)の場合、丘陵の斜面一平方キロメートルの範囲に約七〇〇基以上の古墳が目白押しに群集している。その中にはたった二基の前方後円墳が含まれ、五世紀後半の築造と見られているが、他の古墳はすべて小型の円墳で積石塚(つみいしづか)といわれる土を用いない墳丘や合掌型天井(がっしょうがたてんじょう)を持つ朝鮮半島の影響を受けた古墳が多く含まれている。その築造は五世紀後半に開始され、六世紀をピ—クとして七世紀後半に及んでいる。このことから白石太一郎は大室古墳群は、朝鮮半島から渡来した人々が主に馬匹(ばひつ)の生産にたずさわりながら集住して、前方後円墳を築いた先住の首長のもとに擬制的同祖同族関係(ぎせいてきどうそどうぞくかんけい)を結んでその前方後円墳を始祖の墓と仰ぎながら、これを囲むように群集する古墳を築き続けたのではないかと考えている。

写真26 農夫の埴輪

熊谷市別府出土(埼玉県立さきたま資料館所蔵)

西日本では、大阪府高安千塚古墳群(たかやすせんづかこふんぐん)、奈良県新沢千塚古墳群(にいざわせんづかこふんぐん)、和歌山県岩瀬千塚古墳群(いわせせんづかこふんぐん)などの数百基規模の大型群集墳が良く知られている。このうち岩橋千塚古墳群を例に取ると、前山、花山などの独立丘陵の頂部の見晴らしのいい場所に和歌山県では最大級の前方後円墳が数基営まれ、斜面部には実に約一〇〇〇基の小型円墳が累々(るいるい)と築かれているのである。こうした小型の円墳に葬られた人々は一体どんな人々であったのだろうか。
群集墳の性格をめぐって、有名な論争がある。小林行雄は群集墳の被葬者を古墳時代後期に編成が行われた官人層と考え、農夫の埴輪に耳飾りが示されていることは絵空ごとではないかと指摘している。これに対して、近藤義郎は実際に群集墳中の小円墳から耳飾りや刀剣類が出土することは珍しいことではなく、この時期に台頭した有力家父長層こそが被葬者であると考えた。つまり、大和王権の与えた官位や姓(かばね)とは関係なく、有力な農民層がその家族単位で営んだ墓こそが群集墳であると考えたのである。いずれにしても五世紀末ごろを契機として今まで首長の墓の築造に駆り出されることはあっても自分の古墳は営めなかった階層が全国的に、小なりといえども古墳を一斉に築造し始めたことは大きな社会変革といえるであろう。群集墳からは装身具などのほかに武器が出土することが一般的であり、馬具を出土することも稀(まれ)ではない。おそらく彼らは日頃は農業にいそしみ、有事には首長のもとに編成される兵士となったのであろう。大和王権との直接的な関係で捉えるよりも、このころ顕在化した朝鮮半島への出兵を前提とした在地の支配体制の再編の過程で登場した新しい階層と捉えるのがよいだろう。

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