北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第4節 農民と耳飾り ー群衆墳の時代ー

県内の代表的な群集墳

図55 秩父市飯塚招木古墳群分布図

100基以上の円墳が蜂の巣穴状に密集している。

群集墳築造の波は近畿地方にほとんど遅れることなく、六世紀初頭ごろにわが県にも及んでいる。代表的な二例を見ていくことによって、市域の古墳を考える上での参考としよう。児玉郡神川町の青柳古墳群(あおやぎこふんぐん)は神流川扇状地(かんながわせんじょうち)の段丘上に形成された大規模な群集墳で、青柳を中心に城戸野(じょうどの)、十ニヶ谷戸、北塚原、南塚原の支群に分かれている。このうち北塚原支群は二一基の古墳が発掘調査され、小型の一基の前方後円墳を含み、ほかはすべて円墳で構成されていた。六世紀初頭の築造開始が確認される初期の群集墳であり、その当初から古式の横穴式石室が採用されている点で先進的な内容を持っている。一方、約二〇基の円墳で構成される十ニヶ谷戸支群と城戸野支群は六世紀後半にピークをもち、横穴式石室を内部主体とすることと埴輪を備えていることを共通点としている。青柳古墳群は失われた古墳を加えると二〇〇基を超える大群集墳であり、その内容の先進性は神流川を挟んで隣接する群馬県の影響を受けたものと考えられる。副葬品は金環(きんかん)や玉類などの装身具と直刀(ちょくとう)や鉄鏃(てつぞく)などの武器類が顕著であり、簡単な馬具や古手の須恵器(すえき)を含むものもある。横穴式石室の採用により追葬(ついそう)が可能となり、一基あたり少なくとも三〜四人の埋葬が確認されている。約百年の間に形成されたと仮定すると毎年二〜三基が築造されたことになるが、石室の構築や墳丘の造成には強い規格性が認められるので、古墳造りは共同体の中での協業を前提として考えることができる。おそらくこのような技術と労働力の結集がそれまで氾濫(はんらん)を常とし、大規模な集落を営みえなかったこの地域の治水を可能にし、この新開地を生産基盤とした民衆によって群集墳が営まれたのであろう。
二つ目の代表例として取り上げるのは、秩父市寺尾にある県指定史跡の飯塚招木古境群(いいづかまねきこふんぐん)である。開発の影響が少なく、群集墳の様子を最もよく残している日本でも数少ない重要な遺跡である。古墳はすべて円墳で一二四基が確認されている。荒川の左岸段丘上に分布し、墳丘の裾部が重なり接し合う状態はまさに蜂の巣穴のような密集ぶりである。耕作地としうる平地に乏(とぼ)しく、現在でも人口の少ないこの地域にかくも大規模な群集墳が営まれたのは不思議な感じさえする。すべて地元産の石材を用いた横穴式石室を内部主体としていると見られるが、築造時期は青柳古墳群よりもだいぶ新しく、七世紀から八世紀初頭のものである。

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