北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第1節 古墳時代の成立と展開

耶馬台国はどこにあったのか
ところで、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の紀年銘に見られた景初三年は『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に卑弥呼(ひみこ)が使いをつ かわして魏に朝貢(ちょうこう)し、種々の賜わりものをしたとある年に該当する。その賜わりもののなかに銅鏡一〇〇枚という注目される記載があり、小林行雄はこれを三角縁神獣鏡と推定した。また、三角縁神獣鏡は同じ鋳型で製作された二面以上の鏡(同范鏡(どうはんきょう))が異なった古墳から発見される例があり、中国製と見られるものだけでも約五〇種類が認定されていて、九州から関東地方に分布している。小林は、この現象を卑弥呼およびその後継者が各地の豪族に分け与えた結果と見ている。この場合、三角縁神獣鏡が最も集中する地域は奈良県、京都府、大阪府を中心とした近畿地方であり、鏡の配布者はこの地に居住していた可能性が強い。わが国では古くから、耶馬台国(やまたいこく)は九州にあったとする学説と大和にあったとする学説が対立してきたが、九州での三角縁神獣鏡の発見数は、近畿地方とは比較にならないほど少ない。
『魏志倭人伝』には、「また卑弥呼の死するや、径百余歩の大冢(だいちょう)をつくり、葬(そう)に殉ずるもの奴婢(ぬひ)百余人」とあるが、これは円墳としては大きすぎるので、前方後円墳ではなかったかと見られている。先に見たように二〇〇メートルを超えるような巨大な前方後円墳は近畿地方の中枢部に一局集中しており、九州にはこのような規模の前方後円墳は存在していない。考古学的に見ると、耶馬台国畿内説(きないせつ)に軍配が上がるのであって、卑弥呼の墓の最も有力な候補には、先に述べたわが国最古の前方後円墳である箸墓古墳(はしはかこふん)が挙げられている。この古墳の被葬者については、三輪山(みわやま)の神に仕え、大蛇と婚姻したという伝承を持つシャーマン的性格の濃厚な女性首長の名がすでに奈良時代には充てられており、卑弥呼のイメ ージとオーバーラップするものがある。

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