北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第7節 日々のくらしと習俗

生業
前節で述べたように、古墳時代の集落は河川の縁辺に立地しており、低地での水稲耕作を生業の中心としていたものと考えられる。近年、低地の発掘調査例が増え、熊谷市東沢遺跡などから湿田農耕用の木製の鋤(くわ)や鍬(すき)などが出土しているが、鉄製の歯を必ずしも必要としなかったことが明らかになってきた。湿田経営の場合、最も重要なのは冠水時や稲の成熟時の排水であり、そのためには村総出で溝の掘削(くっさく)にあたらなくてはならなかった。狩猟の時代に比べれば種の保存によって再生産が可能となり、より多くの人口を農耕が支える事となったが、それでも、日照り続きや長雨、台風などの天災で収穫がほとんど得られないこともあったであろう。けれども、このような困難に打ち勝って、農耕技術を向上させ人口を増やし、豊かさをもたらした村々の中から首長(ムラオサ)が成長し小さな村々を従えていったのである。
一方、水利のない台地上では、豆類や芋類などを中心とする畑作も並行して行われていたことが群馬県の火山灰の下から発見された黒井峰遺跡や行幸田遺(みゆきだいせき)など、畑の畝(うね)が発見されている遺跡から明らかとなっている。また、『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に記されており、実際に弥生時代以降の絹織物の出土例があることから養蚕が行われていたことも確かであろう。
古墳時代に農耕の大きな前進があり、全国津々浦々で稲作や畑作が行われるようになった原動力の一つに、鉄器の普及がある。八重塚遺跡(原始P四四七)B区三号住居跡からは小さい鉄片が一点出土しており、折損(せっそん)した農工具のー部と見られる。古墳時代にはまだ鉄製品は貴重品であり、個人所有は一部の首長層を除けば行われていなかったと考えられている。赤堀川の下流域となる桶川市加納の宮ノ脇遺跡からはこうした鉄製品を製作した小鍛冶(こかじ)の工房が発見されており、鉄器の生産が有力な集落単位で行われ、小さな集落との分配や交易が行われていたことを知ることができる。

図63 農耕具の発達

木製農具は鉄製刃先の普及によって改良されていった。(都出1989より引用)

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