北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第8節 祭祀と信仰

家々と村々の祀り
八重塚遺跡(原始P四四七)C区三号住居跡からは滑石製(かつせきせい)の剣形品と臼玉(うすだま)が出土しており、近畿地方と共通する戸内祭祀がいち早く五世紀の段階で採用されていた。これはおそらく竃神(かまどがみ)に対する祭祀であったのだろう。また、榎戸(えのきど)Ⅱ遺跡(原始P五四九)第一号住居跡からは、実用品でなくミニチュアの壺と台付き甕が出土しており、神々への供献(きょうけん)行為が行われていたものと見られる。その願いを図り知ることは困難であるが、一家にとって切実な祈りが捧げられていたにちがいない。
一方、村(共同体)全体に関わる祭祀も盛んに行われていた。その形跡は集落全体を発掘調査して解明するような場合でないと確認が困難である。たとえば、川越市お伊勢原遺跡(いせはらいせき)は和泉期(いずみき)後半(五世紀後半)の六軒の住居から成る集落遺跡であるが、三三三平方メートルの広場から勾玉(まがたま)七点、鏡をかたどった有孔円板(ゆうこうえんばん)四一点、剣形品六五点、臼玉ー九九九点など多量の滑石製模造品が発見されており、ここで集落全体の祭祀が執行されていたと見られる。その位置は集落内でも最も標高の高い重要な場所であり、崖下に小畔川(こあぜがわ)が湾入している環境から見て、農耕の恵みと洪水の原因という二面性を持った河川に対する祭祀であった可能性が考えられる。

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