北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第9節 古墳から伽藍へ

前方後円墳の消滅と薄葬令
前方後円墳は古墳時代の幕開けとともに出現し、大王と中央および地方の大豪族専有の墓制として 象徴的な存在でありつづけた。しかし、西暦六〇〇年前後を最後として突然築造が行われなくなるのである。具体例を引いてみると、埼玉古墳群では最後の前方後円墳と目されるのは中の山古墳であり、くびれ部付近からまとまって出土した須恵器(すえき)によって前述の年代を導くことが可能である。注目されるのはすでに本章第三節でふれたように、この古墳には埴輪が伴っておらず、須恵器工人の製作した疑似埴輪ともいえる壺形土器を伴っていたことである。このことは前方後円墳の終焉時期(しゅうえんじき)とほぼ一致して埴輪生産も終わりをつげたことを示している。ちなみに行田市の小見真観寺古墳(おみしんかんじこふん)(全長一一ニメートルの前方後円墳)の場合は埴輪をごく少量しか保有していないし、川越市牛塚古墳(全長五〇メートルの前方後円墳)の場合には、埴輪そのものを伴っていない可能性が指摘されている。このように時を同じくして県内各地から、そして日本各地から前方後円墳が消滅したのはなぜだろうか。
近畿地方の大王墓に目を転じてみると、昨今巨大な横穴式石室の入り口が開口し、話題を提供した奈良県橿原市(かしはらし)の見瀬丸山古墳は全長三一 〇メートルの巨大前方後円墳であり、二個の家形石棺から欽明天皇陵(きんめいてんのうりょう)の最有力候補に落ち着こうとしている。このことから六世紀の中ごろまでは天皇陵は依然として巨大な前方後円の墳形が踏襲(とうしゅう)されていたことを知りうるのである。しかし、その後このような巨大前方後円墳は再び築造されることなく、全長一三〇メートルの敏達陵(びたつりょう)を最後に姿を消し、非業(ひごう)の最期を遂げた崇峻天皇(すしゅんてんのう)の場合、直径ハ〇メートルの円墳である赤坂天王山古墳に葬られた可能性が高い。また、近(ちか)つ飛鳥と呼ばれる磯長谷(しながだに)(大阪府太子町)には六世紀末から七世紀初頭の王陵が集中するが、このうち推古天皇陵(すいこてんのうりょう)と用明天皇陵(ようめいてんのうりょう)がともに一辺五〇〜六〇メートルの方墳(ほうふん)の墳形を採用していることは特に注目される。つまり大王陵の場合でも六世紀を最後に前方後円墳は姿を消し、方墳に移行することが確認されるのである。しかも、そのスケールダウンぶりは、はなはだしいものであった。このような変化は巨大な墳墓を造営することをもはや社会や国家が求めなくなったことを示すものであって、古墳時代が終焉を迎えるための第一歩を踏み出したものと考えることができよう。かつて、天智朝の大化の改新時の薄葬令(はくそうれい)が前方後円墳築造停止の直接原因と考えられていたが、年代的に符合しないことが古墳の編年研究の進展によってあきらかになってきた。そこで、前方後墳の消滅する西暦六〇〇年前後の社会政治情勢をかいま見てみることにしよう。

図66 奈良県見瀬丸山古墳測量図

全長300mを超える最後の巨大王陵である。

図67 奈良県見瀬丸山古墳の横穴式石室想定復原図

わが国最大の石室には2つの石棺が安置されている。欽明天皇と堅塩姫の合葬陵との意見が有力である。

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