北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第9節 古墳から伽藍へ

氏寺の建立に傾けられた情熱
一方、聖徳太子は仏教の興隆にもおおいに力を割(さ)いた。わが国最古の本格的な伽藍(がらん)として知られる飛鳥寺や、四天王寺を初めとする数々の寺院の建立は様々な面でエポックメイキングなできごとであった。物部守屋(もののべのもりや)と蘇我馬子(そがのうまこ)との間で争われた排仏派と崇仏派の熾烈(しれつ)な抗争が示すように、在来の神祗祭祀(じんぎさいし)をもって朝廷に仕え、民を治める根本原理としてきた伝統的な氏族にとっては、 その拠り所を失いかねない大事件であった。結果的には、神祇祭祀は皇祖神としての伊勢神宮の整備充実を核として、それぞれの氏族の神の奉祭も継続されることとなった。しかし、国家的に推進された仏教興隆政策は中央の氏族はもとより、地方氏族までもが競って氏寺の造営を開始する結果を生じた。
畿内(きない)では蘇我氏の飛鳥寺を代表とし、土師氏の野中寺(やちゅうじ)と道明寺、渡来系の百済王氏の百済寺(くだらでら)などそれぞれに壮大な氏寺が七世紀の前半代までに軒をつらねるといった状況を呈するが、関東地方でも、千葉県では成田市の竜角寺(りゅうかくじ)、群馬県では総社廃寺など、少なくとも七世紀中ごろまでには立派な塔を含む大伽藍を営む有力氏族があった。ここで注目しておきたいのは、竜角寺は千葉県でも最大級の古墳群である竜角寺古墳群の中に所在し、総社廃寺は大型の前方後円墳や方墳などから形成される総社古墳群の中に立地していることである。また、古墳の終焉(しゅうえん)と寺院の建立時期が完全に接続しているという事実である。このことは在地で古墳を営々として築き続けた有力氏族が新たに寺院を建立することと引替えに、古墳の造営をやめたことを示している。しかし、このことをもって仏教の受容が古墳を淘汰(とうた)したと見るのは早計(そうけい)であろう。すでに述べてきたように、新しい社会体制の到来によって古墳そのものが否定されるべき存在となり、実際に薄葬令が布達された段階では、氏族のステイタスは巨大な古墳の造営から壮大な伽藍の創建に発展的解消がなされたと見るべきであろう。
郷土埼玉県にあっても、発掘調査の増大によって、古代寺院の発見が相次いでいる。(図68)今のところ県内最古の寺院は比企郡滑川町(なめがわまち)の寺谷廃寺(てらやつはいじ)であり、飛鳥寺様式の単弁蓮華文軒丸瓦(たんべんれんげもんのきまるがわら)が採集されていて、少なくとも七世紀前半代にさかのぼろう。白鳳時代(はくほうじだい)の寺院では坂戸市の勝呂廃寺(すぐろはいじ)の壮大な伽藍が発掘調査によって、明らかになりつつある。どのような氏族が創建したのか、そして周辺の古墳との関係など今後の課題は大きい。
ところで、初期の仏教寺院は衆庶(しゅうしょ)の済度(さいど)を図ることよりも国家の安泰(あんたい)や氏族の繁栄を祈願することに重点が置かれており、葬祭に与(あず)かることもなかった。また、火葬の普及はなお時間を要した。西暦七〇〇年に僧道昭(どうしょう)が火葬に付されたのがわが国での先蹤(せんしょう)であるが、十年ほど前に発見された太安麻侶(おおのやすまろ)の例などの開明的官人と渡来人を除けば、奈良時代の段階でもなお火葬はまれであった。このため、土葬に伴う在来の葬送儀礼であるところのモガリは、民衆の基層文化として長く存続したのである。

図68 埼玉県内の古代寺院分布図

奈良時代以前の寺院は郡単位に分布する傾向があり、郡司などに連なる有力者の創建が考えられる。また、同じ笵(かた)を用いた瓦の分布は古代豪族の同族関係または交流関係を示すものであろう。

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