北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第1節 古墳時代の成立と展開

様々な墳墓の形と身分格差
日本各地に分布する古墳のうち、それぞれの地域の最大級の古墳は前方後円墳であるといってまちがいない。しかし、前方後円墳の総数は全国で約一五〇〇基であり、古墳総数の二〇万基から見れば、ほんの一にぎりでしかない。残りの大半は円墳であり、方墳(ほうふん)も約ー万基が確認されている。その他の墳形としては前方後方墳や双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)、双方中方墳(そうほうちゅうほうふん)、双円墳(そうえんぷん)、上円下方墳(じょうえんかほうふん)、八角墳(はっかくふん)などがあるが、前方後方墳の約二五〇基を除けば、ごく少数の特殊例に属する。
一方、規模の面から見ると、円墳の多くは直径二〇メートル前後であり、前方後円墳との間には大きな格差がある。最大規模のものを比較した場合でも、行田市の埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)の中にある日本最大の円墳丸墓山古墳(まるはかやまこふん)は、直径がー〇五メートルであり、仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)の四ハ六メートルとの差はあまりにも大きい。この点は、天皇陵の候補に挙げられるような古墳の多くが前方後円墳であるという事実とも関連しよう。西島定生(にしじまさだお)は、このような考古学的事実から、後世のかばね(姓)制度の原形がすでに古墳時代に成立していて、大王家(だいおうけ)とそれを支える有力な豪族にのみ前方後円墳の築造が許され、その他のものは、身分に応じて前方後方墳や方墳、円墳などに葬られたと考えた。また、近藤義郎(こんどうよしろう)は地方にも前方後円墳があるのは大王家または畿内(きない)の有力豪族と深い契りを結んだ(擬制的同祖同族関係)結果とみた。
ところで、埼玉県の場合、埼玉古墳群とその周辺に突出した規模の前方後円墳が集中し、分布に片寄りが見られる。市域とその周辺の状況を見ていくと、大規模な前方後円墳は見あたらないものの、桶川市の川田谷に、ひさご塚古墳という全長三〇メートルほどの小型の前方後円墳がある。前方後円墳は桶川市内にある約ー〇〇基の古墳のうちのわずか一基だけである。このことからも、ひさご塚古墳に葬られた人物は、地域では他にぬきんでた地位にあったものと見られよう。市内では、今のところ前方後円墳は発見されていないが、円墳からなるいくつかの古墳群が知られており、その中には、中井一号墳のように前方後円墳の可能性を持った有力な古墳も見られるので、県内の他地域を概観したのちに、その内容を見ていくことにしよう。

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