北本市史 通史編 原始

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第4章 巨大な墓を競って造った時代

第2節 地域統率者の登場

上野との関係の強かった児玉地方
比企地方とならんで古墳時代前期から古墳が築かれた地域として児玉地方がある。最古の古墳 は児玉町の鷺山古墳(さぎやまこふん)で、埼玉県県史編さん室の発掘調査によって全長六〇メートルの前方後方墳であることが確認されている。口縁部に透(すか)し孔(こう)のある有段口縁の底部穿孔壺(ていぶせんこうつぼ)が出土しており、その年代は四世紀中葉以前と推定されている。東松山市諏訪山二九号墳と好一対(いっつい)をなすものであり、埼玉県の出現期の古墳が前方後方形をもって四世紀中ごろに比企と児玉の両地方に誕生したことが知られるのである。しかし、児玉地方ではその後、首長墓は大型の円墳に統一されていく。その最も古い例が美里町長坂聖天塚古墳(ながさかしょうでんづかこふん)である。墳丘の直径は約五〇メートルあり、墳頂部に六基の粘土槨(ねんどかく)が設けられ、それらの中から倣製(ぼうせい)の方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)や獣形鏡(じゅうけいきょう)、大刀(たち)などが出土している。粘土槨によって副葬品の厚薄(こうはく)があるので、この古墳には首長を中心として血縁者が埋葬されたものと推測される。これに続く大円墳には壺形埴輪を出土し五世紀初頭の築造と推定される美里町川輪聖天塚古墳(みさとまちかわわしょうてんづか)(径三八メートル)、叩き調整で黒斑(こくはん)のある円筒埴輪を出土し、滑石製模造品(かつせきせいもぞうひん)の副葬が知られることから五世紀中葉の築造と見られる児玉町金鑽神社古墳(かなさなじんじゃこふん)(径六九メートル)、本庄市公卿塚古墳(くげづかこふん)(径六五メ —トル)、美里町生野山(なまのやま)将軍塚古墳(径六〇メートル)などがある。このようにほぼ同時期に共通の墳形と埴輪や副葬品を持った古墳が小地域ごとに出現することは、児玉地方を広域的に支配する首長がまだ成長しておらず、同盟関係にあったことを示すものだろう。児玉地方では六世紀に入って生野山銚子塚古墳(なまのやまちょうしづかこふん)や生野山一六号墳、秋山諏訪山古墳などの前方後円墳が出現するまでは、大円墳の時代が一世紀以上も継続したことになるが、その原因について甘粕健(あまかすけん)は上毛野(かみつけぬ)の強大な政治権力による規制を想定している。神流川(かんながわ)をへだてて群馬県と接するという地理環境と滑石製模造品や埴輪などの共通性から児玉地域は上毛野の影響下にあったことは十分に考えられるのである。

図48 本庄市公卿塚古墳の墳丘推定復原図

児玉地方では5世紀代の最高首長墓は50m級の円墳である。

図49 本庄市公卿塚古墳出土の滑石製模造品

(1~3は斧、4~7は鎌、8~10は刀子、11~16は臼玉)

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