北本市史 通史編 原始

全般 >> 北本市史 >> 通史編 >> 原始

第4章 巨大な墓を競って造った時代

第3節 埼玉古墳群の出現と新たな秩序

稲荷山古墳の突然の出現とその出自
行田市にある埼玉古墳群中の前方後円墳、稲荷山古墳から出土した鉄剣に銘文が刻まれていたことが報じられたのは昭和五十三年(ー九七八)のことであった。全長七三・五センチメートルの鉄剣の両面に合計ーー五文字の銘文が金象嵌(きんぞうがん)されていたのである。当時古墳時代の文字資料は、熊本県江田船山古墳(えたふなやまこふん)出土の銀象嵌銘と和歌山県隅田八幡神宮(すだはちまんじんぐう)所蔵の人物画像鏡、それに七支刀(しちしとう)の三点に限られていて、百年に一度の考古学上の大発見と騒がれたことは記憶に新しい。これらの金石文資料の中で、特に稲荷山古墳出土の鉄剣が優れているのは、正式の考古学的調査によって出土したことと、欠字のないこと、長文であること、そして古代国家成立史に関わる重要な内容が記されていることを挙げることができる。
その文意は、鉄剣の解読にあたった岸俊男によれば、「辛亥年(しんがいのとし)の七月に記す。上祖意冨比跪(かみつおやおほひこ)から七代目の乎獲居臣(おわけのおみ)(直(あたい))は代々(よよ)、杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)としてお仕えして現在に至っている。ワカタケル大王の役所が斯鬼宮(しきのみや)にあった際に、わたしは大王(だいおう)が天下を治めるのを補佐し、このよく鍛(きた)えた剣を作らせて、わたしの大王家へ仕える由来を記しておく。」となる。文献史学的な解釈は本書古代・中世編第一章第一節に詳しく述べてあるのでここでは、考古学的ないくつかの指摘をするにとどめたい。まず、辛亥年は干支(えと)であるから、六〇年ごとに候補年が当てられるが、西暦四七一年説と五三一年説が具体的な候補となる。この二者の選択については文面にしばられることなく考古学的に検討するべきである。稲荷山古墳には二基の埋葬主体部があり鉄剣を出土した礫槨(れきかく)は粘土槨より若干新しいという指摘がある。また、礫槨の副葬品は報告書によれば、新旧二相が混在していて、五世紀後半から六世紀前半にわたるという。また、造り出しから出土したと伝えられる須恵器群は大阪府陶邑窯跡群(すえむらようぜきぐん)での編年に照らせば、従来五世紀末から六世紀初頭に比定されていたものである。しかし、古墳の築造時期と時間差の最も小さいのは墳丘に立てられていた埴輪であろう。円筒埴輪には二次調整にヨコハケを持つものが少数例ながら含まれ、川西宏幸の編年のⅣ期の新しい時期に充てることが可能である。それは須恵器の時期とほぼ対応するものであるが、六世紀まで下降させることは困難であり、五世紀の後葉に比定することが至当と考えられる。これらの考古学的検討からは稲荷山古墳の築造年代は五世紀の後葉と見られるのであり、辛亥年は四七一年とすべきことが明らかとなろう。
ところで鉄剣の主である乎獲居(おわけ)は果たしてどのような人物なのであろうか。まず、稲荷山古墳礫槨(れきかく)の被葬者との関係であるが、乎獲居を被葬者と見る意見と否定的な意見に分かれる。銘文の内容に「左治天下」とあり、地方の一介の豪族の実態にふさわしくない記述ぶりから、この鉄剣を大和王権内部の有力豪族から賜与(しよ)されたものではないかとの理解も産まれるのであるが、銘文は乎獲居固有の事績を記すものであり、余人が所有しては価値を生じないことと、大王との関係を記す鉄剣の性格からして、そのような行為自体がはばかられざるをえないことからすれば、やはり乎獲居が所有し、最終的にその柩(ひつぎ)に副葬されたとみるのが自然であろう。乎獲居の出自(しゅつじ)は明らかでないものの本書古代・中世編第一章第一節で明らかにした通り、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)と密接な関係を持ち、阿倍氏と共通する東国経営の正統を主張する軍事的な氏族であり、埼玉古墳群を中心とする武蔵の一部を本貫地(ほんがんち)とし、大和王権に出仕していたものと見られよう。はたして彼が外来の氏族なのか、阿倍氏と擬制的な同祖同族関係を結んだ在地豪族なのかは十分な検証を必要としよう。しかし、少なくとも、考古学的には前方後円墳の設計型の相違などから上毛野(かみつけぬ)とは異なった出自が推定され、大和王権との関係の深さからむしろ上毛野を牽制(けんせい)すべき役割が与えられていた可能性を考えても良いように思われるのである。

<< 前のページに戻る