北本市史 通史編 古代・中世

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第1章 大王権力の東国進出

第1節 金錯銘鉄剣の語るもの

一一五文字の銘文

写真1 稲荷山古墳金錯銘鉄剣

(埼玉県立さきたま資料館保管)

さきたま風土記の丘の整備の一環として、昭和四十三年(ー九六八)八月に前方部を失っていた稲荷山(いなりやま)古墳が発掘調査された。残存していた後円部から二基の埋葬施設が検出され、そのーつの舟形礫槨(れきかく)から多数の副葬品が発見された。それから一〇年の展示期間を経た同五十三年九月に、被葬者の左側に置かれていた一口の鉄剣からーー五文字の金象嵌銘文(きんぞうがんめいぶん)がレントゲン撮影により確認された。
その銘文の文意は、「辛亥(しんがい)の年(四七ー)七月中旬に、私ヲワケの臣(おみ)が記したものである。私の遠祖の名はオホヒコ、以下カサヒヨ、私ヲワケの臣まで八代、代々杖刀人(じょうとうじん)の首(しゅ)となって大王(おおきみ)に仕え、今に至った。ワカタケル大王の朝廷がシキの宮にあった時、私は大王の天下統一事業を補佐し、この練りに練り鍛(きた)えたよく切れる刀を作らせて、私が大王に仕えた由来を書き記しておく」ということである。
銘文の「辛亥(しんがい)年」は、稲荷山古墳の築造年代や「ワカタケル大王」が、記紀や『宋書』の記述から雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)に比定されることから西暦四七一年とされ、そのことから銘文は我が国に成立した数少ない金石資料、最古の文章として、また謎の五世紀解明の同時代資料として測り知れない価値を有するものとして、昭和五十八年六月には、いっしょに出土した多数の出土品と併せて、国宝(武蔵埼玉稲荷山古墳出土品)に指定された。

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