北本市史 通史編 古代・中世

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第1章 大王権力の東国進出

第1節 金錯銘鉄剣の語るもの

ワカタケル大王とヲワケ臣
ーー五文字の銘文は、他の五世紀前後の金石資料に比べ、長文であるが一字も余さず解読できたこと、またその内容は他の金石資料に見られるように形式的な吉祥句(きっしょうく)を含まず、具体的で豊かな内容をもつことから、銘文解読当初よりその評価をめぐって各方面から活発な見解が出された。なかでも最も論議をよんだのはワカタケル大王とヲワケの臣についてであった。大王権力の評価が我が国の国家形成と深くかかわっていたからである。
「ワカタケル大王」については、彼が大王号を称し、「シキの宮」に宮居して、「治天下」という天下統一事業を行っていたことから、後の天皇に当る人物とされ、『宋書』所蔵の倭王跛(わおうぶ)の上表文や、『古事記』『日本書紀』に見られる「大長谷若建命(おおはっせわかたけのみこと)」「大泊瀬幼武天皇(おおはっせわかたけのすめらみこと)」の諱(いみな)から雄略天皇に比定された。雄略の在位は『日本書紀』によると四五六年から四七九年とあり、倭王武が宋の順帝に上表文を奉呈(ほうてい)したのが昇明(しょうめい)二年(四七八)であるから、「辛亥年」は雄略在位年内の四七一年となるのである。そしてこの年代観は稲荷山古墳の成立期や、副葬品の年代観と矛盾するものではなかった。こうしてワカタケルの雄略説は大方の支持を得るところとなった。これによって明治七年(一八七四)に熊本県玉名郡菊水町の江田船山(えたふなやま)古墳から出土した鉄刀の銀象嵌銘を改めて検討すると、従来「獲口口口歯大王」(狼宮弥都歯大王=反正(はんぜい)天皇)と解読されていたものが、「獲加多支鹵大王」と読めることになり、奇しくも同じ大王名を表記する鉄刀と鉄剣が関東と九州から発見されたことになる。
これに関連する外国資料として注目すべきは、倭王武の上表文である。それには「昔より祖禰躬(そでいみずか)ら甲胄を擐き、山川を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず、東は毛人(えみし)を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国 渡りて海北を平ぐること九十五国」とあって、倭王武が父祖以来征服軍の先頭に立って、東国から九州はもとより、朝鮮半島にまで進攻した様子を伝えており、大王家による全国的な統一事業の形成過程と結果を物語っている。これらのことと東国と九州から出土の鉄刀・鉄剣からの同一大王銘の検出は、五世紀前後の大和大王家の東国進出を具体的に裏付けることとして注目された。
鉄剣をつくったヲワケについては、銘文の系譜からオホヒコを祖とする中央軍事氏族の阿倍氏一族とする説と、鉄剣が稲荷山古墳から出土したことを重くみて武蔵豪族とする説がある。つまり、ヲワケを礫槨(れきかく)の被葬者とみるか否かが鍵となろう。いずれの説が妥当かを判断するのは難しいが、金錯銘鉄剣を出土した稲荷山古墳や埼玉(さきたま)古墳群の性格究明が基本であることは疑いえない。
ところで、ヲワケを礫槨の被葬者であるか否かを考える際に留意すべきは、ヲワケが銘文や、鉄剣を作らせた人物であることである。そこで金錯銘鉄剣が礫槨から出土した点を重く見てヲワケを礫槨の被葬者と考えるのが自然だとする武蔵豪族説がある。ところがそれに対し中央豪族説からいくつかの疑問が呈された。
その一は、五世紀末から七世紀初頭にかけて、武蔵では埼玉古墳群ほどの数多くの大型古墳を集中して所在している例は他に見られず、また、この古墳群が従前から武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)の墳墓と考えられてきた。ところが、記紀や「国造本紀(こくぞうほんぎ)」によると、武蔵国造は出雲系の天穂日命を始祖とし、オホヒコを上祖(かみつおや)とするヲワケの系譜と合致しない。むしろ銘文の八代の系譜中の人名は、中央軍事氏族であるオホヒコ系の阿倍氏や膳(かしわで)氏の系譜名に類似し、スクネ・ワケなどの姓的称号も中央豪族に多く見られ、武蔵国造とは考えられないとする。二は、ヲワケは杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)としてワカタケル大王の天下を左治(さじ)した大王の近臣であったが、五世紀後半段階では武蔵豪族が大王の宮廷でそれほどの地位を有し得なかったとする見解である。三は、ヲワケが「臣」姓を有するのに対し、武蔵国造は「直」姓を有していて臣姓を確認できないことなどであった。
これについて武蔵豪族説は、ーの系譜上の問題点は、上祖(かみつおや)オホヒコからタサキワケまではヒコ・スクネ・ワケという姓的称号をもち、実在性の高いヲワケの前代と前々代は何らの姓的称号をもたず、そこに系譜として断絶が見られ、杖刀人首(じょうとうじんのしゅ)として大王に奉事したヲワケが自己の功績を誇示するため、タサキワケ以前の系譜を架上した可能性が高いとする。二は、武蔵豪族がワカタケル大王に近侍しなかったという積極的理由が見出されず、むしろ六世紀前半と考えられる武蔵国造の争乱に大王家が直接介入し、大王家と武蔵国造家の親近性すら窺(うかが)えることに留意したいとする。三の「臣」は、オミと訓読して姓的称号と解することが妥当か否かである。ヒコ・スクネ・ワケが字音表記であるから、オミのみを訓読表記とするのは不自然であり、「臣」はシンと音読して、大王権力を中心とした氏姓制が確立する以前の過渡的称号=太田亮のいう「原始的カバネ」に相当すると考える。
以上を勘案すると、中央豪族説、武蔵豪族説の何(いず)れを是とするかは難しい問題であるが、銘文の表現を重視し、金象嵌(きんぞうがん)技術やその表現法から見てその製作は大王の側近者にして初めて可能であり、かつ埼玉古墳群には稲荷山古墳に先行する古墳が見られないことなどから、ヲワケは武蔵豪族とは考えられず中央豪族出身者とする。従ってヲワケは王権を支える阿倍系の豪族で、王命により関東に派遣され、埼玉に本拠を置いて毛野国(けぬのくに)を牽制し、やがて埼玉で死去。ここに埋葬され、以後子孫がこの地で勢力を振い「埼玉古墳群」を形成したのであろう。

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