北本市史 通史編 古代・中世

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第1章 大王権力の東国進出

第2節 国造と部民

部民の設置
大化前代の大和政権は、全国支配を強固にするために、国家としての権力機構の充実と、宮廷組織の整備を図っていた。中央では、大王のもとに服属した豪族の子弟たちが〃とも(伴)〃として種々の労役や生産物貢納を専業に従事し、職掌の分化もみられた。軍事は大伴氏が大伴部(おおともべ)や靱負部(ゆげいべ)を、物部氏が物部を率いて大王に奉仕し、祭祀は忌部(いんべ)氏が忌部を、土師(はじ)氏が土師部を率いて勤仕する体制がそれである。
地方においても、大王家は国造(くにのみやつこ)や伴造(とものみやつこ)などに任じた在地の有力豪族を通じて農民支配を強めていった。これらの豪族は大王家との関係の深さによって氏や姓(かばね)(臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)・直(あたえ)等)が与えられ、傘下(さんか)の機能や氏集団を率いて大王権力に奉仕した。この氏や姓によって形づくられた支配体制を氏姓制といい、氏には氏集団の生活を支える農民や技術者が従い、特定の部に編成されて部民(べのたみ)と呼・はれた。部民は、族長が支配していた一団の農民を割(さ)きとって設定した例が多いといわれるが、特定の貢納物生産や賦役(ぶやく)をもって氏に従属し、氏上(うじかみ)である族長はこれをもって大王家に奉仕するという体制になっていた。また五〜六世紀にかけて朝鮮半島から渡来した新技術や知識を持った人々も伴(とも)に編成され、部民として位置づけられた。
これらの氏姓制と部民制の姿は、各種文献や金石資料・地名等から窺(うかがう)うことができ、それらを考察することによつて、大化前代の大王権力と武蔵国の具体的関係を知ることができる。武蔵国の部民設置は多種多様で、概していえば南部に稠密(ちゅうみつ)で北部は少ないという地域的差がある。一般的には、部民の設置は先進の畿内地域や、美濃・備中(びっちゅう)・出雲といった旧豪族の勢力の強かった地域に低く、東国において密であるとされることから、大王権力の東国や武蔵支配の特殊性と隸属性の強さを示すものとなっている。
部民は大別すると次の三つにわけられ、それぞれ歴史的な意義を異にしている。
表1 東国における物部・大伴部の分布
国名 物 部 大伴部 
有姓者 無姓者 郷名
神社名
有姓者 無姓者 郷名 
安房 
上総 
下総 
常陸 
相模 
武蔵 
上野 
下野 
その一は、大王(天皇)后妃・皇子等の名号(みょうごう)、宮号を負った名代(なしろ)・子代(こしろ)と呼・はれるものである。例えば矢田部は仁徳(にんとく)妃の八田若郎女(やたのわかいらつめ)、刑部(おさかべ)は允恭(いんぎょう)妃の忍坂大中姫(おさかのおおなかつひめ)、桧前部(ひのくまべ)は宣化(せんか)天皇の桧前宮に由来し、名代・子代とされた農民はその名を付されて大王や王族のために収穫物を貢納したり、護衛役や雑役に従ったりした。養老五年(七二ー)の下総国葛飾郡大嶋郷戸籍(正倉院文Sに集中してみられる孔王部(あなほべ)は、安康(あんこう)天皇の名号穴穂(あなほ)、ないし宮号の石上(いそのかみ)穴穂宮に由来する安康の名代(なしろ)(一説には欽明(きんめい)天皇皇女泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)<聖徳太子の母>の名代)として設置された集団と思われる。名代とされた国造の一族からは舎人(とねり)や采女(うねめ)を出仕させた。那珂(なか)・賀美(かみ)郡の桧前舎人や足立郡の丈部直が采女を出しているのはその遣制である。東国の名代・子代の設置状況と分布については、佐伯有清の研究があり、それによると武蔵国は名代・子代の設置が著しく、四世紀以降七世紀初頭にわたって総体的に多いのが注目され、大王家の勢力進出の矛先が向けられていたことがわかるという。
その二は、漆部(うるしべ)・矢作部(やはぎべ)・土師部(はじべ)のように特定の手工業生産に従ってその製品を大王家に貢納した品部(ともべ)である。彼らは日常生活維持の基本として農業生産に従事しながら、特別な技術を駆使して手工業生産に従事していた。
その三は、大伴部(おおともべ)・物部・中臣部(なかとみべ)など、中央豪族名を含み、その豪族に服属した部曲(かきべ)である。大伴氏や物部・中臣氏などは、軍事や祭祀(さいし)などそれぞれの職掌をもって大王家に奉仕していた。部曲はそれぞれの豪族の職掌を支えるために設けられたもので、大王家に服属する名代・子代とさほど差はなかったようである。足立郡には阿倍氏と関係の深い丈部(はせつかべ)が見られる。
このうち物部・大伴部については、大王家の軍事力を代表する物部氏・大伴氏という中央豪族が、大王家の軍事力として東国へ進出し、制圧した一つの例証としてかねてから注目されていた。表1は物部・大伴部の東国における分布を見たものであるが、常陸(ひたち)を除けば武蔵国に分布が多い。先述の名代・子代の設置の多さと関連させてみると、大王権力に対する武蔵国の忠実な政治的位置がうかがえるのである。特に物部は、屯倉(みやけ)の設置を通じて地方豪族に接近し、服属化したといわれる。大王家の武蔵進出は、屯倉を戦略拠点とした物部氏の手によって推進されたとも考えられている。大伴部についても東国に広範に設定され、大王家と大伴氏—大伴部—東国豪族の関係の密接さを伝えている。なお、部民は天智の甲子宣(かつしのせん)で王民化し、律令の施行によってすべて公民化した。

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