北本市史 通史編 古代・中世

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第2章 律令時代の北武蔵

第3節 地方豪族の成長

武蔵毫族の富強
律令政治は公地公民制を基本原則としていたが、八世紀に入るとその矛盾も深刻化し、農民の逃亡や、貴族や寺社の私有地の増大などで土地制度は崩壊の危機に瀕していた。政府は、三世一身(さんぜいっしん)の法や墾田永年私有令(こんでんえいねんしゆうれい)を発して開墾地の私有を認めた。天皇家自身も辺境地域を中心に各国に勅旨田(ちょくしでん)を設置して荘園領主化し、耕地私有化の道を開いていった。この結果、有力貴族や大社寺、有力地方豪族によって大規模な荒廃地・空閑地などの開発が行われ、膨大な土地集中と財力形成を行っていった。
その富強(ふきょう)ぶりを武蔵豪族の例でみると、神護景雲(じんごけいうん)三年(七六九)入間郡の大伴部直赤男(あたえあかお)は、奈良西大寺(さいだいじ)に商布一五〇〇端、稲七万四〇〇〇束、墾田四〇町歩、林六〇町歩という巨額な物資と土地を寄進し、没後の宝亀(ほうき)八年(七七七)六月に外従五位下を追贈されている(『続日本紀』)。同じ神護景雲三年には埼玉郡の私部(さきいべ)浜人・広成父子も西大寺に布一五〇〇疋、稲六万束を寄進し、従五位上に叙せられたという(「私部氏系図」)。また九世紀の例では、男衾郡(おぶすまぐん)大領外従八位上壬生吉志福正(みぶのきしふくしょう)の富強ぶりが注目される。福正は承和(じょうわ)八年(八四一)に子息二人が納入すべき調庸を生涯分全額前納した。さらに四年後の同十二年には、先に神火(雷)で焼失した武蔵国分寺の七層塔を独力で再建し寄進しており、その財力の巨大ぶりを伝えている。
ちなみに、福正が前納した調庸の額を、承和八年五月七日付の太政官符(だじょうかんぶ)(『類聚三代格』)でみると、壬生吉志継成(年一九歳)の調庸料の布四〇端二丈一尺・中男作物の紙八〇張、壬生吉志真成(年一三歳)の調庸料の布四〇端二丈一尺・中男作物の紙一六〇張と莫大(ばくだい)な量であった。これによって平安初期における武蔵国の調庸輸納の具体的な実施状況や数量を窺(うかが)うことができる。こうした富力をさらに裏づけるものとして、現在発掘中の大里郡江南町の大規模な寺院跡である「寺内古代寺院跡」は壬生吉志氏との関連があるのではないかと言われている(「寺内古代寺院跡資料」)。
ただし、両者の税負担は全額免除でなく、租の納付および雑徭(ぞうよう)負担については免除外であった。
福正の行為は一見七層塔寄進に際しての一言のように「聖朝を奉ぜんがため」の篤志(とくし)ともみられるが、実情はそうではなかった。奈良時代中期以降の律令政治の行きづまりのもと、地方では国造の系譜を引く在地豪族やその一族が郡司職を勤めた貢献によって官位を与えられ、その伝統的権威や行政的権力によって、在地での墾田の開発や買得を進め、私有地を拡大し富豪化していった。さらに官位は蔭位(おんい)の特権を伴ったのでそれも魅力であった。こうしたことは当然に地域の権力構造に変化を生じ、特に終身官で、耕地の私有化を容易にし得る郡司職就任をめぐっては、豪族間に熾烈(しれつ)な争いが生じ、郡倉に火を放って失脚を狙う「神火事件」をも頻発させた(古代・中世№二三)。
ところで、地方豪族が強大化するには、右の例のように在地において財力を蓄積し、郡司になっていくコースと、政府に接近して中央の官職を得、政治的・経済的成長を遂げるコースがあった。後者の道を歩んだのが足立郡司丈部直不破麻呂(はせつかべあたえふわまろ)である。
丈部直不破麻呂は、直姓を有していることから、中央軍事名族阿倍氏と深い関係を持ち、奥州や坂東各地に広く分布していた古代部民の「丈部」を統率した伴造(とものみやつこ)に出自をもつ在地豪族であった。

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