北本市史 通史編 古代・中世
第2章 律令時代の北武蔵
第1節 地方制度の整備
古代の官道律令体制が展開し地方制度が整備されると、中央と地方を結ぶ連絡路としての官道=駅路が制定され、駅路にはほぼ三〇里間隔(約一六キロメートル)で駅(駅家)が設置されて、官吏の往来が頻繁(ひんぱん)に行われた。武蔵国は上信地方との古くからの関係で、当初は東山道に属していた。ところが国府は武蔵南部の多磨郡府中に置かれていたので、都への連絡は東海道の方が便路となり、八世紀には西へ向かう人々は東海道を利用するようになった。それは天平勝宝(てんぴょうしょうほう)七年(七五五)に難波へ赴(おもむ)いた防人埼玉郡の上丁、藤原部等母暦(ふじわらべのともまろ)の歌に「足柄の御坂に立して」(古代・中世:№九)とあることからもわかる。
八世紀の武蔵の陸路について二つの重要な記述がある。そのひとつ(A)は『続日本紀(しょくにほんぎ)』神護景雲(じんごけいうん)二年(七六八)三月乙巳条(古代・中世№ニー)で、東海道巡察使紀朝臣広名(じゅんさつしきのあそんひろな)が下総国の井上(いのがみ)・浮嶋・河曲(かわわ)の三駅と、武蔵国の乗潴(のりぬま)・豊島の二駅が、東海・東山両道の道をうけて使節の往来が頻繁であったため、駅馬を中路に準じて一〇匹に増置したいと要請し、許可されていることである。他の(B)は『続日本紀』宝亀(ほうき)二年(七七ー)十月己卯の太政官奏(古代・中世№二三)で、武蔵国は東山道に属しているが、東海道との連絡路の役割も果たしているので公私の往来が繁多である。それに上野から下野へ入るには、上野新田(こうづけにった)駅(群馬県太田市)から下野足利(しもつけあしかが)駅(栃木県足利市)に行った方が直通で便路であるが、途中武蔵国を経由するため大きく迂回(うかい)し、新田駅を南下して利根川沿いに「五ヶ駅」を経て武蔵府中に至る。用務が終わると、もと来た道を北上し、上野国を経て下野国府へ向かうという変則ルートによっていた。それに対し、東海道は相模国夷参駅(神奈川県海老名市)から中間の四駅を経て下総国府に達し、武蔵南部を通過しているので、武蔵国を東海道に転属させた方が往来に便路だというのである。
そこで、当時の東山道はどのルートを通って武蔵国府に連絡していたのかが問題となる。解決の鍵は五ヶ駅の「五ヶ」の語義解釈とその比定地、およびそれらに設定される乗潴駅の比定地がどこに置かれているかという点にある。
(A)・(B)両記述や、『延喜兵部式』(九二七年)「諸国駅伝馬条」の記述等を検討し、従来から諸々の説があるが、それを一覧にしたのが表4である。
表4 東山道五駅比定地一覧
論者・著書 駅名 | 乗 瀦 | 豊 島 | 井 上 | 浮 嶋 | 河 曲 |
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柱岡良弼 Ⅰ『日本地理志料』 | 羽生市岩瀬 | 北区王子 | 松戸市 | 墨田区小松 | 古河市 |
吉田東伍 Ⅱ『大日本地名辞円』 | 杉並区天沼 | 北区王子 | 用田区陽田寺 | 千葉市幕張 | 千葉市寒川町 |
稲村坦元 Ⅲ『埼玉求史』 | 大宮市天沼 | 越谷市付近 | 北埼玉郡鷲宮町 | 浮島駅北方 | |
坂本太郎 Ⅳ『乗瀦の所在について』 | 杉並区天沼 | 旧江戸城辺り | 千葉市幕張 | 千葉市寒川町 | |
小野文雄 Ⅴ『埼玉県の歴史』 | 大宮市天沼 | 王子、神田・ 浅草付近説等がある | 三郷市か北葛飾郡吉川町付近 | 春日部市付近 | 北葛飾郡幸手町付近 |
森田悌 『古代武蔵・下総間の駅路』 | 杉並区天沼 | 千代田区神田 | 松戸市 | 隅田川と太日川の中間 | 隅田川左岸 |
なお、東海道転属後の承和二年(八三五)には、武蔵・下総国境の住田河と、下総国の太日河の渡船が、要路であるにもかかわらず船数が少なく、貢調にもさしつかえるとして二艘(そう)から四艘に増設されており(『類聚三代格』)、当時交通が頻繁(ひんぱん)であったことを窺わせている。