北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第3節 古代末期の争乱と武蔵武士

平忠頼と繁盛の対立
将門の乱後も、坂東の治安は安定せず、国司は指導性を失い、無力を暴露していた。一方、在地領主は、国司の苛政(かせい)に挑戦する農民の支持のもとに、在地における支配力を強化していた。こうした時に、寛和(かんな)元年(九八五)、将門討伐に軍功のあった平貞盛の弟の繁盛と、武蔵国大里郡村岡に本拠を置き、下総国相馬郡一帯に勢力を伸ばしていた村岡五郎良文の子、陸奥介平忠頼・忠光兄弟との間に対立が起こった。
この間の経緯を伝える同三年正月二十四日付けの太政官符(『続左丞抄』)によると、同二年、繁盛は、不運にも将門鎮定の恩賞に漏れ、空しく歳月を送っていた。老境に至った繁盛は、聖朝の安穏と鎮護国家のために金泥(きんでい)で大般若経(だいはんにゃきょう)一部六〇〇巻を書写し、丹誠の心を表わそうと「経」を白馬に負わせ、比叡山延暦寺に献納しようとした。これに対し武蔵国にいた平忠頼・忠光兄弟らが、伴類(ばんるい)を引率し途中で奪取しようとしたので、繁盛は朝廷に奏聞し、忠頼・忠光らの追討の官符を発してもらった。ところがその後追討停止の官符が出されたので、写経運上という善根の中断を恐れた繁盛は、延暦寺政所(まんどころ)の支持を受けて、追討官符の再発行を要請したというのである。この事件は同じ平氏ー族でありながら、貞盛・繁盛系と良文系の対立がかなり以前から続く根強いものであったことを示している。前述の平将門の乱では、将門の伯父で忠頼の父である良文について、その動向を伝えるものが全くない。ところが乱後、将門の本拠であった下総国西北部の地域は良文に継承されており、またある系図によれば両者は養父子の関係にあったとするものも見られるので、良文は将門と深い関わりがあったと考えられる。とすれば将門対貞盛の対立は、時を経て良文の子忠頼対平貞盛の弟繁盛へと継承され、さらにその対立が極に達したのが次の平忠常の乱であった。

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