北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第3節 古代末期の争乱と武蔵武士

大蔵合戦と源義朝・義賢兄弟の対立
源氏には嵯峨・清和(せいわ)・村上・花山等の諸天皇から分かれた諸源氏があるが、このうち地方武士として武蔵に関係あるのは嵯峨源氏と清和源氏である。嵯峨源氏が武蔵国に進出してくるのは、前述の十世紀前半における源仕以降のことと思われる。しかし仕とその子箕田(みだ)源氏宛以降は、嵯峨源氏の活躍にも目立った動きがなく、代わって清和源氏が登場する。早くは承平・天慶年間の六孫王源経基の活躍が見られるが、武人としてはさしたる影響は見られなかった。その勢力が本格的に関東地方に及んでくるのは、前述の十一世紀初頭、平忠常の追討に当たった源頼信以降である。その子頼義、その孫義家による前九年・後三年の両役を通じて、頼信・頼義・義家父子の威風が坂東武士に慕われた。相次ぐ争乱と対立の中で、一族の生命と自己の所領保全を熱望していた坂東の在地領主層は、競ってその傘下(さんか)に集まり、主従の義を結んだ。
頼義は「性は沈毅(ちんき)、武略(ぶりゃく)多く、最も将帥(しょうすい)の器とな」し、「勇決群を抜き、才気世に被(おお)う」た勇将と讃えられ、坂東武士の中には、頼義が相模守となって坂東に来た時には「威風大いに行われ、拒捍(きょかん)の類、皆奴僕(ぬぼく)の如し、士を愛して施しを好み、会坂(おうさか)以東の弓馬の士は大半門客となる」と伝えている(『陸奥話記(むつわき)』)。
義家も父頼義に従い前九年の役に武威を示して、坂東武士の信頼を集めた。後三年の役では、麾下(きか)の坂東武士らと生死苦楽を共にし、勇戦、清原氏を討ち破った。政府はこの乱を私闘として恩賞を与えなかったので、義家は私財をなげうって兵士への恩賞を行ったという。こうしたことが坂東武士の心をうち、麾下の坂東武士との間に強い主従関係を生じたという。
義家の曽孫の義朝は、若年のころ鎌倉に住み、父祖以来の「貴種」と武門の棟梁(とうりょう)としての権威をふりかざし、相模の大庭御厨(おおばのみくりや)、下総の相馬御厨の領主権を侵し、坂東の豪族大庭氏、千葉氏を圧倒して、坂東武士を自己の支配下に入れていった。やがて、その勢力は武蔵国に進出してくるが、その力を決定づけたのが久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五)の義朝の子義平と、義朝の弟義賢(よしかた)との間で争われた武蔵大蔵(おおくら)(比企郡嵐山町)合戦である。
源義賢は為義の次男として生まれ、父が左大臣藤原頼長の家人(けにん)であった関係上、義賢も頼長に仕え、一時能登庄を預けられた。やがて、皇太弟体仁(なりひと)親王(後の近衛(このえ)天皇)の御所を警備する帯刀長(たちはきのおさ)を勤め、その縁で帯刀先生(たてわきせんじょう)とも呼ばれた。保延(ほうえん)六年(一一四〇)滝口武者(たきぐちのむしゃ)源備殺害事件に連座して解任され、程なく上野国多胡(たこ)郡多胡庄に降ったようである。
当時の北関東では、十二世紀初頭以来、源氏一族の源義国の活躍がみられた。上野東部では義国の子義重が新田(にった)庄を本拠とし、その弟義康は下野国足利(あしかが)庄で勢威を振っていた。こうして源氏勢力の関東進出は強固に進められ、義賢も多胡庄を領有したと思われる。
仁平(にんぴょう)三年(一一五三)義賢は、北武蔵で勢力を誇っていた武蔵国惣検校職(そうけんぎょうしき)秩父重隆の養君となり、大蔵館周辺を讓られて上野から北武蔵へ進出してきた。
大蔵は、上野・信濃に通ずる古道(鎌倉街道上道)の要衝の地にあり、軍事上からも重要な位置を占めていた。当時、武蔵国には武蔵七党に代表される中小武士団がそれぞれの所領の保全と拡張のため、抗争と統合をめぐって緊張関係にあった。秩父氏の惣領であった重隆は、国衙在庁の権威の拡大と在地武士団の幅広い結集を目的として、名門清和源氏一門の義賢と連合したのである。

写真12 大蔵館跡 嵐山町

清和源氏は、頼信・頼義・義家三代で坂東武士と強い私的主従関係をもっていた。しかし、為義が家督を継いだころは一族の内紛が起こり、為義自身も検非違使(けびいし)の左衛門尉(じょう)止まりで受領(ずりょう)にもなれず、加えて嫡子義朝とも不和で中央における勢威は平氏に劣っていた。一方坂東においても新しい在地領主の成長もあって、源氏の支配力は弱まっていた。
源家嫡子の誇りをもつ義朝は、鎌倉を拠点として坂東武士団の再編成に乗り出し、短期間のうちに相模・武蔵を中心として中小武士団を服属・統合していった。一方秩父重隆は、かねて義朝と不和であった義賢と連合し、義賢を盟主として対義朝勢力をつくりあげようとした。
久寿二年(一一五五)八月、両者の勢力は武蔵大蔵(比企郡嵐山町)で衝突した。保元の乱を翌年に控え、折から在京中である義朝に代わり、父の意志を継いだ嫡子悪源太(あくげんた)義平と、その叔父義賢・重隆連合軍の間で戦闘が行われ、義賢側は敗北した(古代・中世№四三・四四・四五)。この戦いで、畠山重能(はたけやましげよし)や、児玉党などの武蔵武士団は義平側として活躍した。義賢側の敗因は在地武士の掌握と組織化の弱さにあった。この大蔵合戦の勝利により、義朝の武蔵支配は決定的となった。それまで帰趨(きすう)の明らかでなかった武蔵の中小武士団は、競って義朝に属していった。

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