北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第1節 律令制の崩壊と治安の悪化

箕田充と村岡五郎
古代末期の歴史像に豊かな素材を提供してくれる説話集に、十二世紀前半に成立の『今昔物語』がある。その巻二五に収められた「兵(つわもの)」の説話に、箕田庄(鴻巣市箕田周辺)出身の源充と武蔵村岡郷(熊谷市)の武者、村岡五郎良文との合戦譚がある。
「今ハ昔 東国ニ源充・平良文卜云、二人ノ兵有ケリ、充ガ字ヲバ□(箕)田ノ源二ト云、良文ガ字ヲバ村岳ノ五郎トゾ云ケル、此ノ二人、兵ノ道ヲ挑(いどみ)ケル程ニ、互ニ仲悪シク成ニケリ」と、『今昔物語』はこのように書き出されている。

写真9 伝箕田館跡 鴻巣市

源充の父は、先に述べた武蔵国衙を襲撃し、官物を掠奪して国守を殺そうとした前武蔵権介源仕である。彼は任期満了後、武蔵に土着して箕田庄を開いた私営田領主であった。充の時代には武士化して並びなき「兵」となっていた。村岡五郎は桓武平氏の後裔(こうえい)で高望王の子、後に将門の乱を起こした平将門の叔父にあたる。彼も村岡郷をはじめとして各地に私営田を営む私営田領主であり、かつ東国にその人ありと知られた「兵」であった。こうして互いに我こそは坂東一の武者としての誇りと自負をもっていたのに、たまたま二人の仲を中傷するものがあったので、合戦(武芸)によって決着をつけようと日を定め、さる原野に両軍対峙(たいじ)することとなった。両軍は各々五〜六〇〇人ばかりの身を棄て命を顧みない精兵を引き具し、今や一触即発の状態となった。この時良文が充に対し、今日の合戦は「只君卜我レトガ各ノ手品ヲ知ラムト也、然レバ、方々ノ軍ヲ不会射組シテ、」二人だけで馬を走らせ、全力を尽くして射合おうではないかと提案した。充ももちろん賛成で二人はそれぞれの軍勢を控えさせ、ただ一騎で進み出で、互いに秘術を尽くして相手を射倒そうとした。両者とも矢を放った後、馬から落ちるばかりの姿勢で矢をそらす、両側に控えた従兵たちは今射落とされるか否かとただはらはらするばかりであった。こうして何度か射合わしたが勝負がつかないので、両者共に互いの手のうちはわかった、昔からの敵同志でもないのでもう止めようといい、合戦を止めた。以後は両者とも仲良くし、少しも疑う所はなかったというのである。これを当時の人々は「昔ノ兵、此ク有ケル」として、二人を兵の理想像として賞讚している。
この説話の中に当時の兵の心ばえを窺い知ることができると共に、在地領主の私営田領主化と身命を顧みない精兵五〜六〇〇人を引き具す武者の姿を余すことなく伝え、後に武士団の首長となっていくのは、こうした弓馬の術に長じた武者であることを物語っている。

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