北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第1節 律令制の崩壊と治安の悪化

荘園と牧
律令国家体制の基盤となっていた班田収授法は、人口の増加等による口分田の不足、班田(はんでん)事務の停滞、農民の浮浪逃亡などにより、八世紀の前半には、すでにうまく機能しなくなってきていた。そこで律令政府は、積極的な耕地拡大を図り、養老六年(七二二)には一〇〇万町歩の開墾計画を立案したが、うまくいかず、翌七年には、新たに溝池を造って耕地を開墾した者は三代、既存の溝池を利用して開墾した者には一代に限り開墾地の私有を認めるという、いわゆる三世一身(さんぜいっしん)の法を施行し、耕地面積の拡大に努めた。しかしこの計画も、墾田私有の期限が近づくと耕作を怠るために、せっかく開かれた田地が再び荒廃してしまうため、うまく機能しなかった。そこでさらに天平十五年(七四三)には、三世一身法を廃止して、位階に応じた限度内で墾田の私有を認めるという、墾田永年私財法を制定したのである。
こうした政策の展開は、一方では有力貴族や大社寺、在地の有力豪族などによる土地の開発を促(うなが)し、結果的には土地の私有化を促進することとなった。そのうえ、彼らには納税免除の特権が与えられていたため、耕地の拡大は政府の財政収入の増加には結び付かず、国家財政はますます苦しくなり、破綻(はたん)の危機に直面することとなった。そこで律令政府は、公営田・官田の設置による国家の直接経営をめざしたが果さず、勅旨田(ちょくしでん)の設定は九世紀に集中してみられ、『類聚国史(るいじゅうこくし)』や『続日本後紀(しょくにほんこうき)』の記述等から見ると、天長(てんちょう)五年(八二八)から仁和元年(八八五)にいたる五八年間の勅旨田の設置は、摂津(せっつ)国以下一ニか国、五一六七町六反に達した。
武蔵国は大国であり、しかも広い空閑地があったから、畿内摂津国一一五二町歩に次ぐ一一四〇町歩であった。天長六年(八二九)には淳和(じゅんな)上皇領として最初の勅旨田二九〇町が置かれ、続いて翌七年には正税(しょうぜい)一万束を充当し、続いて五年後の承和元年(八三四)には幡羅(はら)郡の荒廃田一二三町歩が冷然院(れいぜいいん)領に充てられ、同八年二月には五〇七町が嵯峨院領の勅旨田となっている。しかし、こうした勅旨田の開発に駆り出されたのは班田農民であり、また勅旨田となった空閑地は、農民の重要な生活基盤であった共同利用地であった。このため、勅旨田の設置は、農民にとって大変迷惑な事であった。政府は延喜二年(九〇二)に至って、勅旨田の開発を禁じ、従来の勅旨田については、農民の請作による耕作とする転換を行った。
さらに、このような政策を行うことで、律令政府はその国家体制の基盤である公地公民制を自ら否定し、以後、国家自体が荘園領主化していくこととなる。
一方この期には、大社寺・王臣家・在地豪族などの手により、大規模な荘園経営が行われるようになった。すなわち、自墾地系荘園の成立である。なかでも、大社寺・王臣家は、自己の政治的な地位を利用し、租税免除の不輸権(ふゆのげん)や国司の介入を排除できる不入権など各種の特権を得て、荘園を私領化していった。
こうした状況のなかで、政府は在地豪族の私有地から租税を徴収しようとした。そこで在地の豪族たちは、国司の徴税を逃れるために、自己の開発した土地を有力な社寺や貴族に名目的に寄進して本所や領家と仰ぎ、自らは荘官として土地の実質的な所有権を確保するようになっていった。これが、寄進型荘園と呼ばれるものである。
武蔵国に置かれた荘園は、宝亀(ほうき)十一年(七八〇)に作成された『西大寺資財流記(るき)帳』(「西大寺文書」)にみえる入間郡榛原荘(狭山市)、貞観(じょうがん)十四年(八七二)に作成された『貞観寺田地目録帳』(「仁和寺文書」)にみえる高麗郡山本荘(日高市)、多磨郡弓削荘(ゆげのしょう)(東京都青梅市又は八王子市)、入間郡広瀬荘(狭山市・飯能市)などがある。この三庄は右大臣藤原良相(よしすけ)が貞観寺に寄進したもので、三庄の合計面積は一三四町六段二四八歩に達した。
鎌倉期の史料等から平安末までに成立したと思われる寄進型荘園には、武蔵武士と関係の深い埼玉郡太田荘・同郡大河戸御厨(おおかわどみくりや)・入間郡河越荘・男衾(おぶすま)郡畠山荘・幡羅(はら)郡長井荘・下総国葛飾郡下河辺荘などがある。
また、武蔵国には大和大社寺の封戸(ふこ)が置かれていた。封戸は農民が国家に納める租・庸・調の二分の一を支給される制度であるが、その納入事務は国司が担当した。やがて国司は封主への納入を怠り、私領化・荘園化していった。『新抄格勅符抄』によると武蔵に置かれた大和諸寺の封戸数は、東大寺四五〇戸ほか六寺一〇六五戸に達し、天平神護(てんぴょうじんご)二年(七六六)七月には武蔵氷川神に三戸の封戸が与えられている。この期には丈部直(はせつかべのあたえ)氏の中央での活躍がみられるので、それと関係があるのかも知れない。氷川神に与えられた封戸はどの郷であるかは不詳だが、恐らく氷川神の近傍(きんぼう)の郷であったろう。
荘官となった在地の豪族たちは、当初は荘園領主である社寺や王臣家に従っていたが、時の経過による勢力の衰退とともにその支配を排除するようになり、やがて独立した私営田領主へと成長していった。そして彼らは、自己の支配領域を他の権力の介入や干渉から自らを守るために武装するようになった。これが武士発生の一因である。
地形が比較的平坦で未墾地が広がる武蔵国は、良質の牧草の成育に適したこともあって、各地に古くから牧が設置され馬の飼育が行われていた。古代の牧には、御牧(みまき)(勅旨牧(ちょくしまき))・諸国牧(官牧)・近都牧・私牧があった。
御牧は皇室の料馬を供給する牧で、信濃・上野・甲斐・武蔵の四か国に三二か所置かれ、左右馬寮の所管、諸国牧は軍団使用の牛馬の飼育を目的とし、兵部省の所管でこれに在地豪族私営の私牧があり、坂東や九州に多く分布していた。
武蔵国に設置された牧には、諸国牧として桧前(ひのくま)馬牧と神崎(かんざき)牛牧が、御牧として石川・由比・小川・立野の四牧があった。これらの諸牧の所在地については諸説があるが、現在の埼玉県域にその比定地があるものには、桧前馬牧・神崎牛牧 ・秩父牧・立野牧がある。
足立郡では、浦和市大間木(おおまぎ)付近に比定されている立野牧がある。立野牧が御牧となったのは延喜九年(九〇九)で、牧の管理者である別当には藤原道行が任じられ、毎年八月十五日に馬一五疋を貢進するように命じられていた。御牧からの馬の貢進は駒牽(こまひき)と呼ばれ、宮中の年中行事となっていた。
しかし官馬の貢進は、時代が下るとともに、駒牽の時期が遅れたり、貢進数に満たなかったりする場合が多くなり、さらに牧の管理者の在地豪族が牧を私領化していき、牧の制度が崩壊し、彼らの武士化を促進する有力な要因となった。

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