北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第2節 平将門の乱と武蔵武芝

桓武平氏の進出
九世紀以降、地方の支配体制に一つの目立った変化が起こってきた。それは国司として赴任(ふにん)してきた受領(ずりょう)層が、任期満了後も帰京せず任地に土着化するという現象であった。彼等は当時の政治体制である摂関体制から疎外されたものたちであった。受領層の土着化は地方政治にさまざまな影響を及ぼしたので、藤原政権はしばしば土着禁止令を発したが、その効果には見るべきものがなかった。関東では、下向貴族として土着化し、任地に大きな勢力を拡大したのが桓武平氏であった。
桓武平氏とは、桓武天皇の四人の皇子(葛原(かずらはら)・賀陽(かや)・万多・仲野親王)たちの子孫で、臣籍に降下し平姓を賜り、公武両系に分かれた。関東に下向したのは武家流の葛原親王-高見(たかみ)王流で(図2)、史上有名な伊勢平氏や坂東八平氏などはいずれもこの流れに属した。高見王の子高望(たかもち)王が、寛平(かんぴょう)元年(八八九)ころに平朝臣の姓を賜ったといわれ、その年、王は軍事貴族として当時上総で反乱を企てていた民部卿宗章を討伐し、翌年上総介に任じられ下向してきたという(『平家勘文録』)。王が武人としてどれほどの資質を有したかは明らかでないが、当時の上総には俘囚(ふしゅう)や群盗の反乱が相次いでおり、王の着任後、俘囚らの動きは鎮静化しているので、軍事鎮圧を企図したこの人事は成功したといえるだろう。
しかし、高望王とすれば、坂東下向は自ら望んだことではなく、当時の藤原政権下では中央において栄達を望むベくもなかったので、窮乏(きゅうぼう)王臣の辿(たど)った一般的コースを辿ったにすぎなかった。従って、王は任期満了後も帰京せず上総国に土着した。上総介は国司の次官だったが、天長三年(八二六)の官符によって上総ら三国が親王任国とされたので、国の最高賁任者である守は置かれず、介が事実上の長官であった。この職権と皇親という貴種性を背景として、また都への憧憬(しょうけい)や皇親・貴族に対する畏敬(いけい)の念の強かった坂東豪族の子女と婚姻関係を結び、多数の子女をもうけた。これらの子女の家系は、当時の婚姻習俗から父系を継承し、また、母方の厖大(ぼうだい)な私営田をも確保して、各地に強力な私営田領主として成長していった。その武士化による代表的形態が坂東八平氏だったといえよう。
高望王の息子は、『尊卑分脈』という系図としては比較的信頼のおける資料によると、国香(くにか)(良望・常陸大掾(ひたちだいじょう)・鎮守府将軍)、良兼(下総介)、良将(鎮守府将軍)、良孫(上総介・鎮守府将軍)、良広、良文(村岡五郎)、良持(下総介)、良茂(常陸少掾)の八人が挙げられている。このうち良将・良持・良茂は重複しているのではないかと考えられるが、王の子弟が坂東諸国の国司や、東北鎮撫(ちんぷ)の鎮守府将軍として勢力を拡大したことは疑いないところである。
このうち国香・良兼・良持・良文・良正らは、地方有力豪族の女を母とし、父高望王の皇親並びに国守としての権威と母方の富力を背景として、いずれも常総地方に広大な所領をもつ在地豪族に成長していった。彼らは異母兄弟であったから、母方の豪族家の事情によって利害を異にし、ときには対立抗争する危険性を孕(はら)んでいた。特に将門の世代ともなればその傾向は顕著になり、対立関係は鮮明になった。彼らは父より継承した私営田経営を通じ農民を傘下(さんか)に組入れ、彼らと保護、被保護の関係を強めながら一旦事ある時は武力集団化して対立者を攻撃した。ここでは如何(いか)に多数の農民を集めるか、またそれを可能にする私営田の広狭が豪族勢力の強弱を決定した。勢力拡大策として国香が常陸大掾、良兼が下総介、良孫が上総介、良持が下総介に任ぜられたように、国権の末端である国衙在庁に入りこみ、公権力を背景として各自の勢力拡大を図った。それと共に国香が皇親系豪族常陸大掾源護(みなもとのまもる)らの有力在地豪族層と婚姻関係を結んだように、外縁をも拡大して勢力を拡大し、自立化の道を歩んでいった。その中から特に有力となった武門の家々は、良文系が秩父・土肥・上総・千葉の四氏、良茂系が三浦・大庭・梶原・長田の四氏で、世にこれを坂東八平氏と称した。

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