北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第2節 平将門の乱と武蔵武芝

平将門の私闘
将門(まさかど)は陸奥鎮守府将軍平良持の子で下総国猿島(さしま)郡石井(いわい)郷を中心に広大な所領をもつ豪族であった。母は下総の名族県犬養宿禰(あがたのいぬかいのすくね)の子孫、妻は伯父下総介良兼の女(むすめ)であったらしい。その根拠地は鬼怒川と小貝川に挟まれた低湿地帯で、下野国境に近く国衙の勢力が及びにくい所であった。『今昔物語』によると「弓箭(きゅうせん)ヲ以テ身ノ荘(かざり)トシテ、多ノ猛キ兵ヲ集テ伴トシテ、合戦ヲ以テ業(なりわい)トス」とする”つわもの”であった。少年のころ太政大臣藤原忠平(承平六年八月就任)の家人となり(『将門記』)、忠平の推挙で検非違使(けびいし)任命を望んだが果たさず、また父の死もあって帰国した(『神皇正統記』)。
争いは承平(じょうへい)年間(九三一〜三八)に、将門と伯父良兼の私闘に端を発した。原因は父没後の所領問題に、良兼娘との婚姻問題が重なったらしい。
この時の対立は良兼の消極的態度で拡大せず、その後数年間は小康状態を保ったが、承平五年(九三五)二月、将門は常陸の土豪平真樹(まさき)に頼られて、伯父良兼の姻縁につながる皇親系豪族の源護一族と対立し、護の三子扶(たすく)・隆・繁と伯父の国香を殺害した。この結果、将門は一族と敵対関係に入り、この後、国香の子貞盛や良兼と果てしない抗争を続けることになった。貞盛は、京にあって左馬允(じょう)の職についていたが、父国香の討死によりその地位をなげうって帰郷し、族長の良兼軍に合流したのである。
同六年九月、源護の告状で、護と将門・平真樹らが京に召喚されたが、罪科は重くなく、将門はかえって「兵(つわもの)の名」を京にとどろかした。翌七年四月、朱雀(すざく)帝元服の大赦によって、五月には帰郷した。その後、良兼との間には子飼いの渡・堀越の渡・石井(いわい)宿の夜討ちなど、幾度かの戦いが繰り返されたが、おおむね将門側が優勢であった。天慶(てんぎょう)元年(九三八)二月、心ならずも将門と対決した貞盛は、一族同士の合戦に見切りをつけ、再び京での活躍に望みを託し、上洛しようとした。将門は、貞盛が政府へ讒訴(ざんそ)することを恐れ、信濃国分寺辺りまで追跡し、これを討ち破った。貞盛は辛うじて追跡を逃れ、京に上って将門の非を太政官に訴え出た。政府は大いに狼狽(ろうばい)し、将門追討の官符を発した。六月、貞盛はその官符を携(たずさ)えて関東に下ったが、将門側の勢力が強く、貞盛は常陸・下総辺りに潜伏して再起を期していた。こうして平氏一族の内訌(ないこう)は、将門の優勢のうちに一時小康状態に入った。

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