北本市史 通史編 古代・中世

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第3章 武士団の成立

第2節 平将門の乱と武蔵武芝

足立郡司の交替
足立郡司は八世紀以来代々丈部直(はせつかべあたい)氏(後に武蔵氏と改姓)が継承し、特に武蔵武芝は郡司として、名声が高かったことは前述した通りである。しかし、将門の乱にまきこまれ、郡司の地位を失ったようである。これについて「西角井系図」には、武芝について
承平八年二月、国司守興世王、介源経基と不和争論す、此の事により郡家を退顛し、氷川祭事に預らずと注記されており、氷川祭祀権は、以後、武芝の女(むすめ)が嫁いだ武蔵介菅原正好の家に引き継がれたと述べている。しかし、 同系図の信憑性(しんぴょうせい)については問題があり全幅の信頼はできないが、将門と武芝の関係から推測して、乱の終息後、武芝が失脚したであろうことは想像に難くない。その後、足立郡司がどのように推移したか、史料的にこれを物語るものは何もない。「西角井系図」では、菅原氏の二代行範、四代行永について、いずれも「足立郡司」の傍註がつられており、同系図の記載に従えば、菅原氏が郡司の職を伝領したかのように見える。しかしながら、『尊卑分脈』にも「坂東八箇国国司表」(埼玉県県史編さん室)にも武蔵介菅原正好の名は見えないので、保留せざるを得ない。
かわって足立郡司として史書に名を現わすのは足立右馬允(うまのじょう)遠元である。この遠元は、足立の在名を名乗っている上に、後に治承(じしょう)四年(一一八〇)源頼朝軍に参加した時、頼朝から「(足立)郡郷を領掌すること、違失有るべからず」(『吾妻鏡(あずまかがみ)』)として、その権限を保証されているところを見ると、早くから足立郡司職をもっていたものと考えられる。但し、丹波国(兵庫県)の足立氏蔵の「足立系図」によると、足立氏は藤原北家の出自で、遠元の父遠兼のときから足立郡住となっており、遠元の代から、その母の父豊島泰家の譲りを受けて足立を名乗り足立郡地頭となったとしている。これに従うと、足立氏は足立郡に根拠をもち、郡司職についたのは、平安末期のこととなる。しかし、『姓氏家系大辞典』はこれを疑い、足立氏は元来武蔵の住人であって、或いは武蔵武芝の後裔(こうえい)であるかも知れないとしている。そうすると、足立氏の郡司就任はもっと早い時期からと考えてよい。

写真11 足立神社 大宮市

『延喜式』神名帳によると、足立郡の官社として氷川神社・足立神社・調(つき)神社 ・多気比売(たけひめ)神社の四社の名があげられて いる。 これら式内社は、 いずれもその地方の有力氏族に奉斎(ほうさい)されたとみられる。氷川神社の場合は丈部直氏(武蔵家)と深い関係にあり、『延喜式』では同社のみが名神大社に位置づけられている。他の神社についてもその奉斎氏族の存在を考えるべきである。足立神社の場合、足立氏とのつながりが考えられるが、大宮市植田谷(うえたや)の地には、江戸時代に足立屋敷と呼ばれた地があり、その近くに足立神社が奉斎(ほうさい)されていた。時代に隔たりがあるから軽々しくは言えないが、神社の位置の変化は少ないから、或いはその地が足立氏の本拠とも考えられる。そうすると、足立氏は早くから、土着の豪族のひとりであったことになろう。次に足立氏が藤原氏を名乗ったことについて考えられるのは、遠元の女が後白河院の近臣藤原光能に嫁していることである。この縁で遠元は都の貴紳藤原姓を名乗ったものと思われる。

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