北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

源頼朝の挙兵と安達・足立氏
平氏打倒を唱えて、京都に挙兵した後白河院第二皇子以仁王(もちひとおう)・源頼政(よりまさ)らは、治承(じしょう)四年(一一八〇)安達・足立氏 五月下旬、
空しく宇治川で敗死した。王が挙兵に当たって諸国の源氏に発した平氏討滅の令旨(りょうじ)は、その後の平氏政権の動揺と相まって、諸国の反平氏勢力に蜂起のきっかけを与えた。頼朝へは叔父源行家により令旨がもたらされ、頼政の敗死後は流人頼朝の身にも危険が迫ったので、平氏打倒の意志を固めた。その最初の行動が、旧源氏家人の招請である(古代・中世No.四八)。この際、使者となったのは安達盛長で、妻が頼朝の乳母比企尼の長女の縁により、流人時代から頼朝の側に仕えていた。彼の館は足立郡糠田(鴻巣市糠田)にあったと伝えられ糠田の放光寺には、盛長とされる木像が現存する。まず八月十七日、源頼朝は、伊豆三島社大祭の夜陰に乗じ奇襲して伊豆の目代山木判官兼隆(もくだいやまきはんがんかねたか)を討ち、緒戦を飾った。この合戦で、盛長は合戦勝利を祈願した三島社への使者を勤めた(古代・中世No.四九)。しかし、その後、平家方の大庭景親らの反撃を受け、頼朝は相模国石橋山で敗北した。この時武蔵武士の熊谷直実らは大庭勢に従っていた。いったん安房国へ逃れた頼朝は再起し、両総(上総・下総)の豪族千葉常胤(ちばつねたね)・上総介広常(ひろつね)らを味方につけ、房総地方を手中に収めた。九月十九日、下総・武蔵両国の境である隅田川辺に兵
を進めた頼朝は、武蔵入国に対する慎重な政治工作を続け、武蔵武士にその協力を求めた。
この時、頼朝の兵力は房総三国の武士団を合わせて約二万七〇〇〇騎に達しており、これに甲斐源氏や常陸・上野・下野の武士団を加えると五万の大軍を組織できる見通しをもっていたようである。こうして十月二日、三万騎余の軍勢を率いて隅田川を渡り武蔵国内に足を踏み入れた。この頼朝のもとに、まず両岸に本貫をもつ豊島清元(としまきよもと)・葛西清重(かさいきよしげ)や小山宗朝(おやまむねとも)(後の結城朝光(ゆうきともみつ))らが参上した。同時に、足立郡の豪族足立遠元も、義朝以来の恩顧関係で参陣した(古代・中世No.五〇)。次いで四日には、挙兵の際、平氏方に属していた畠山重忠(はたけやましげただ)・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長(えどしげなが)らの秩父党の面々も頼朝の旗下に降り、武蔵国の大勢は決した(古代・中世No.五一)。翌五日、頼朝は江戸重長に「武蔵国諸雑事など、在庁官人ならびに諸郡司らに仰せて沙汰(さた)致さしむべし」と平氏時代の武蔵国総検校職河越重頼に替えて、武蔵国衙(こくが)の在庁指揮を命じた(古代・中世No.五二)。この重長の権能は、在庁官人の最右翼たる留守所惣検校職(軍事指揮権)と国衙の目代の権能とを兼ね備えたもので、頼朝が武蔵国衙の支配権を掌握したことを示している。やがて七日、鎌倉に入って鶴岡八幡宮(つるおかはちまんぐう)を遥拝し、関東に覇を唱えることになった。
十月八日、足立遠元は、頼朝から郡郷領掌の安堵を受けた(古代・中世N0.五三)。この足立郡に関する領掌権は、平氏政権下では知行国主の平氏に没収されていた。頼朝がこの「領掌する郡郷」権を安堵したのは、彼の旧権能を回復させたことになる。『吾妻鏡』における頼朝の本領安堵記事はこれが初見であり、「日者(ひごろ)の労」ある遠元が頼朝にとつて、他の武士に先駆けて功賞するほど重視されていたことになる。
武相房総を手中にした頼朝は、頼朝追討のために東征して来た平維盛軍(たいらのこれもり)を迎撃するために、箱根山を越え駿河黄瀬(きせ)川に進出した。十月二十日、甲斐源氏武田信義(たけだのぶよし)らが夜襲をかける前に、水鳥の羽音に驚いた平氏軍は富士川から敗走した。これを見た頼朝は、直ちにこれを追って上洛しようとしたが、千葉常胤・三浦義澄(みうらよしずみ)・上総介広常らに、坂東統一が先決と進言され兵を返した。二十三日、相模国府で挙兵以来の功士北条時政(ほうじょうときまさ)や安達盛長(あだちもりなが)らに、本領安堵や新恩給与を行った。十一月、常陸国で佐竹源氏を討滅して後顧(こうこ)の憂いをなくし、この戦いには、熊谷直実(くまがいなおざね)らの武蔵国の中小武士の活躍が見られた。

図4 清和源氏略系図

鎌倉に帰った頼朝は十一月に侍所を設置して御家人の統制を強め、十二月十二日、新造の大倉亭に移った(古代・中世No.五四)。この移徙(いし)の儀に和田義盛・畠山重忠をはじめ、安達盛長ら三〇〇名を超える御家人が出仕し、壮観を呈したと伝える。二日後の十四日には、武蔵武士へ本知行地主職を元の如く安堵した(古代・中世No.五五)。佐竹合戦等による武蔵武士の活躍に応えたものである。すでに、十月に相模国府で功賞が行われていたが、武蔵武士では安達盛長が含まれるのみで、『吾妻鏡』では、武蔵武士 一般に対する功賞記事は、これが最初であり、ここに、頼朝と武蔵武士をはじめとする坂東武士らとの間に、御恩(ごおん)と奉公(ほうこう)という封建的主従関係が結ばれ、鎌倉殿(かまくらどの)と御家人(ごけにん)という関係が成立し、鎌倉政権の基礎が固められた。
頼朝の挙兵は、源氏再興という私的な一面もあったが、それのみで四か月たらずの短い歳月で、坂東武士を掌握再編し南関東の地を手中にできたわけではない。坂東の武士達は、公領では国司に、荘園では本所・領家に従属化していたので、彼らが現実に所有していた土地等に及ぼしていた権利については、不安定であった。従って平氏を筆頭とする京都の有勢者との絆(きずな)を絶って、安定した所領経営をするのが悲願であった。このため、「貴種」の出である源頼朝を、武門の棟梁として仰ぐことによって、今までの支配権力に対抗できる統一した自己の権益を確保する必要があったのである。

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