北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第3節 承久の乱と御家人の動向

承久の乱と武蔵武士
後鳥羽上皇は源頼朝の死後、将軍頼家の更迭(こうてつ)・比企(ひき)氏の乱・畠山重忠の討伐・北条時政の失脚・和田義盛の乱などくり返し起きた幕府の内紛(ないふん)を、幕府自体の弱体化による崩壊(ほうかい)の兆しとみてとった。そして承久(じょうきゅう)元年(一一二九)正月、第三代将軍源実朝が鶴岡(つるがおか)八幡宮で頼家の遺児公暁(くぎょう)に暗殺されたのをみて、上皇はいよいよ討幕を決意した。一方幕府は、実朝の後継として皇子の将軍就任を求め使者を上洛させたが、
結局上皇側の拒否にあい、頼朝の血縁にあたる九条道家の子三寅(みとら)(頼経(よりつね))を後継将軍とした。同年七月三寅は、足立元春・河越重時らの御家人に供奉(ぐぶ)され、京都より鎌倉に赴任した(『吾妻鏡』)。
承久三年(一ニニ一)五月十四日、後鳥羽上皇は、流鏑馬(やぶさめ)と称して兵を集める一方、親幕派の西園寺公経(きんつね)らを幽閉し、ついで京都守護の伊賀光季(みつすえ)を討伐し、執権北条義時追討(ついとう)の院宣(いんぜん)を全国に発した。上皇挙兵の知らせは同月十九日には鎌倉に届き、幕府は北条義時邸で会議を開いた結果、追討軍の派遣を決定し、武蔵国の御家人安保実光(あぼさねみつ)以下の到着を待って上洛することになった(古代・中世No.八六)。
同月二十一日には北条泰時らは鎌倉を出発、東海道に沿って上洛を開始、幕府軍はたちまちのうちに大軍となり、六月五日には尾張と美濃境の摩免戸(まめと)(岐阜県各務原市(かかみがはらし))や洲俣(すのまた)(岐阜県安八郡墨俣(すのまた)町)などに布陣した。洲俣の陣には、安達・豊島・足立・江戸・河越氏などの名が見える(古代・中世No.八七、八八)。ついで幕府軍は大内惟信(おおうちこれのぶ)が率(ひき)いる上皇軍を攻撃し、たちまちのうちにこれを破り、敗走した上皇軍を追って近江国(おおみのくに)(滋賀県)に入り、同月十三日には勢多(せた)(滋贺県大津市)や宇治(うじ)(京都市)などに最後の防衛線をひく上皇軍と合戦となった。

図9 承久の乱関係図

(『県史通史編2』P127より作成)

勢多の橋をめぐる合戦では、足立二郎・佐々目太郎・江戸八郎らが何回かに分かれて攻撃をしており、とくに四番手の攻撃陣の中に吉見十郎と同小次郎父子がいた。彼ら父子も熊谷直国らとともに攻撃に参加したが、敵の反撃をまえになすすべがなく、吉見十郎は勢多橋の途中にて子の小次郎とともに前進も後退もできず川に飛びこみ、水中で甲などを脱ぎすて裸となり泳いで自陣に帰ったほどであった(古代・中世No.九一)。このように勢多をはじめとして各所での上皇軍攻略は困難を極めたが、十四日には幕府軍の総力をあげての攻撃で総崩れとなり敗退した。幕府軍は翌十五日、京都六波羅(ろくはら)に入っている(古代・中世No.九〇)。
六波羅に入った北条泰時らは、今回の乱は上皇の意志ではなく謀臣らが勝手にやったという上皇の申し開きにもかかわらず、乱の首謀者らの処罰、それにともなう所領所職の没収と、朝廷内部の改変を断行した。乱の首謀者である後鳥羽上皇を隠岐(おき)に、土御門(つちみかど)上皇を土佐に、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡に流罪(るざい)とし、仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃して後堀河天皇を即位させ、同じく公家の藤原光親(みつちか)・一条信能(のぶよし)や、武家の藤原秀康らを殺害する一方、幕府派の西園寺公経(さいおんじきんつね)に朝廷の実権を掌握させて「関東申次(かんとうもうしつぎ)」に就任させ、幕府と朝廷との関係を密接なものとした。さらに京都には従来あった京都守護を六波羅探題(たんだい)に改め、畿内(きない)以西での幕府最高機関として朝廷の監視や御家人らの統制などにあたらせた。また乱の首謀者たちから没収した三千余か所といわれる所領所職を軍功のあった武士らに恩赏として給与した。
表10 武蔵武士に給与された所領所職一覧表
地名人名地名人名
①河内国讚良庄 安達景盛 ②近江国三宅郷 品川成阿 
③丹波国大山庄 中沢基政 ④丹波国和智庄 片山広忠 
⑤丹波国私市庄 清久胤行 ⑥出雲国安田庄 江戸重持 
⑦播磨国須富庄 安保実員 ⑧安芸国三入庄 熊谷直時 
⑨紀伊国岡田庄 高麗兵衛尉 ⑩淡路国塩田庄 藤田兵衛尉 
⑪讚岐国本山庄 足立遠親 
いま武蔵国関係で、史料により承久の乱の恩賞として所領所職を給与されたと確認されているのは、表10の十一人であり、⑤の清久(きよく)氏以外はすべて地頭職であった。地頭職には、本補(ほんぽ)地頭職(幕府創設以来承久の乱以前までに補任されていたもの)と新補(しんぽ)地頭職(承久の乱後に補任されたもの)があった。新補地頭には、前任者の権利をそのまま受けついだものと、新しく地頭が置かれたものがあり、後者を「新補率法地頭」と呼び、公領・私領の区別なく田畠十一町につき一町の給田畠と、一段につき五升の加徴米(かちょうまい)(付加税)の取得権などがあった。前表のうち⑪の足立遠親(とおちか)を含め②・③・④・⑥・⑦がそれにあたる。
いずれにしてもこれをきっかけに従来ほとんど幕府の影響力が及ばなかった畿内以西の所領などにも幕府権力が及ぶことになり、鎌倉幕府は単なる関東の地方政権から、西国をも支配下に置いた全国政権へと脱皮することになった。また足立氏をはじめとする武蔵武士にも畿内以西の所領を獲得でき、新たな発展をとげる契機(けいき)となったといえる。

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