北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第3節 承久の乱と御家人の動向

武蔵野開発
幕府の実権を掌握した北条氏は、北条義時以来武蔵国を重要視し、その経営に積極的に取組んでいた。とりわけ武蔵国内の荒野開発に関心をもっていた。すでに頼朝時代の建久(けんきゅう)五年(一一九四)十一月には、頼朝は翌年三月までに太田庄の堤修理を完了するよう命じており(『吾妻鏡』同年十一月二日条)、ついで正治(しょうじ)元年(一一九九)四月、幕府は東国地頭らに、水利の便よい荒野の開発を命じ、「荒不作(あれふさく)」すなわち天災などにより作物の出来が悪いことを理由とする年貢減少の地は、以後その領有を認めないことを伝えた(『吾妻鏡』同年四月二十七日条)。さらに八年後の建永二年(一ニ〇七)三月にも、北条氏は前回同様に大江広元(おおえのひろもと)を奉行として、武蔵国内の荒野の開発を地頭らに伝えるよう武蔵守北条時房に命じており、幕府の武蔵国の開発に対する並々ならぬ決意が感じられる(『吾妻鏡』同年三月二十日条)。このような北条氏の積極的な耕地拡大策が成功したのか、建保(けんぽ)元年(一二一三)十月には、新しく開発された土地の調査に幕府の奉行人を派遣している(『吾妻鏡』同年三月二十日条)。
北条氏の武蔵野開発に対する姿勢はその後もまったく変わらず、寛喜(かんき)二年(一二三〇)正月、執権北条泰時は公文所(くもんじょ)において再度太田庄内の荒野開発を地頭らに命じた。太田庄は、藤原秀郷(ひでさと)流の鎮守府将軍藤原頼行の養子太田大夫行尊を開発領主として十一世紀に成立した皇室御領の庄園であり、その庄域は幕末に編さんされた『新記』によれば、近世に太田庄内とある村は、埼玉郡一八五か村、大里郡二か村、足立郡一か村の合計一八八か村に及んでおり、現在の北埼玉郡の大部分を中心に、南埼玉郡や大里郡や足立郡の各一部にまたがる広大な庄園であった。さらに太田庄は、古利根川沿いの自然堤防上の村々を主な庄域としており、畠作が中心であったが、後背湿地(こうはいしっち)にひろがる水田は、常に庄園内を流れる大小の河川による水害の危険に悩まされており、建久(けんきゅう)五年(一一九四)の太田庄の堤の修理や同じく建長(けんちょう)五年(一ニ五三)八月の下河辺(しもかわべ)庄への堤防構築命令も、やはり水田保護を主たる目的として行われたものであった(『吾妻鏡』同五年八月二十九日条)。
ついで寛喜(かんき)四年(一二三二)二月、北条氏は大破した榑沼(くれぬま)堤(坂戸市横沼のあたり)の修築を周辺の地頭らに命じる一方、奉行として尾藤景綱(びとうかげつな)と石原経景(いしはらつねかげ)の両名を現地に派遣し、領内の百姓らを残らず動員し、しかも家別に米二俵を徴発して三月五日をもって工事にとりかかるように命じた。この工事は北条氏にとってかなり重要なものであったらしく、泰時みずからが現地に下向して指揮をとると厳命するほどであった(『吾妻鏡』同四年二月二十六日条)。
仁治(にんじ)二年(一ニ四一)十月、北条氏は武蔵野台地の水田開発を決定、開発にともなう水は多摩川より引き入れることにした(『吾妻鏡』同年十月二十二日条)。大規模工事となることから、十一月四日には武蔵野開発の成功を願う将軍頼経の「方違(かたたがえ)」の儀式が行われ、頼経は鶴見にあった秋田城介安達義景(あきたじょうすけあだちよしかげ)の別荘に渡御(とぎょ)した(古代・中世No.一〇〇)。多摩川を掘通し、つくりあげた堰(せき)を利用して多摩川の水を武蔵野に流し水田開発の一助とする大土木工事はすでに始まっていたが、十二月二十四日には、栢間(かやま)左衛門尉と多賀谷(たがや)兵衛尉らを派遣し現地での指揮にあたらせた(『吾妻鏡』同日条)。彼らはいずれも北条得宗家(とくそうげ)の被官であり、寛喜二年(一二三〇)の太田庄の開発に関係した人物と思われ、今回その実績がかわれて奉行に任命されたのであろう。
一方これらの開発にともなう動きとして「大田文(おおたぶみ)」の作成がある。大田文とは、「田文(たぶみ)」あるいは「図田帳(ずでんちょう)」ともいわれ、各国ごとに国内にある公領(こうりょう)(国衙領(こくがりょう))と私領(庄園など)に関係なく、すべての田地の面積や領有関係などを記録した台帳のことである。武蔵国では建久七年(一一九六)源頼朝が「惣検地(そうけんち)」を行っており、大田文の作成がはかられたが、実際の作業はなかなか順調に進まず、承元(しょうげん)四年(一ニ一〇)にいたりようやく完成した(古代・中世No.八一)。それと同時に武蔵の国務に関する条項も定められ、武蔵は将軍の知行国として国衙支配の基礎が固められていった。これ以後も幕府の武蔵国への働きかけはつづき、建暦(けんりゃく)元年(一二一一)幕府は、三河や越後とともに武蔵国にも、明春に大田文を作成するよう政所(まんどころ)職員二階堂行光・清原清定の両人に命じている(『吾妻鏡』同年十二月二十七日条)。さらに承久の乱直後の貞応(じょうおう)二年(一ニ二三)にも全国の大田文の作成をはかっており、文永(ぶんえい)九年(一ニ七二)・弘安(こうあん)年間(一ニ七八~八八)にも同様に大田文の調進を命じている。
いずれにしても武蔵国は、関東御分国の一つであって、鎌倉をかかえる相模国とともに、軍事ならびに経済を支える重要な国であった。従ってその国内の開発には在地の武士らに頼るのではなく、幕府ひいては北条氏自らが積極的に参加主導し経営を行ったのであった。その結果、武蔵国内の耕地は鎌倉時代末期には飛躍的な増大をみた(『拾芥抄(しゅうがいしょう)』)。しかし武蔵国内の開発の主力となったのは現地の御家人たちであり、実際彼らの負担はかなりのものであったと思われ、北条氏の締めつけとともに彼らをして西国等への移住に踏み切らせる要因の一つになった。


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