北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第4節 御家人の動揺と得宗

得宗支配と足立郡
霜月騒動後の幕府は、執権・連署ともに北条一門に限られ、評定衆や引付衆も北条一門が多数を占めた。また、地方統治機関である六波羅探題(ろくはら)や鎮西(ちんぜい)探題の頭人も北条一門の者に限られており、諸国守護も在職がわかる五二か国中二七か国に北条得宗(とくそう)か北条一門の者が就任しているという状況であり、幕府の重要な地位はすべてといってよいほどに北条得宗及びその一門の者たちにより占められてしまった。
武蔵国では、守護職とともに国衙も北条得宗の支配下となっており、幕府からの武蔵国への命令や伝達は、耕地開発にみられたように(『吾妻鏡』寛喜四年二月二十六日条)、得宗を通して行われるようになっていた。さらに前述したように、北条氏は武蔵国のなかでも利根川流域と旧入間川(いるまがわ)(荒川)流域に所領を多く獲得しており、ときにはかなり強引な方法での所領化をはかった。弘安五年(一二八二)二月二十一日に裁定の下った足立郡もその一例である。
同日開かれた評定会議で、幕府は足立郡は公領(国衙領ともいう)か私領のどちらかを問題とし、幕府が所持している「平家跡没収御領注文」(いわゆる「平家没官領注文(へいけもつかんりょうちゅうもん)」のこと)を見たところ、足立郡は没官領として記載されていることから私傾ではなく公領であるとの判決が出された。足立郡は、元来足立氏固有の所領であったところだが、遠元が平治の乱の際、源氏方についたため没収され平家領となっていた(古代・中世No.四七)。源頼朝が鎌倉を征圧した治承(じしょう)四年(一一八〇)十月には、挙兵以来の軍功に対する恩賞として、遠元(とうもと)に足立郡郷が返付されていた(古代・中世No.五三)。武蔵国支配強化策をとっている北条得宗にとって、武蔵国を支配する重要拠点といえる足立郡の領有権をもつ足立氏の存在は不都合そのものであり、従ってその排除に全力を傾け、そこで出してきたのが足立郡は平家没官領であったという論理であった。すなわち足立郡は、他の平家没官領と同様「平家跡没収御領注文」に掲載されており、他の平家没官領は公領となっていることから、足立郡もそれと同様に国司の支配を受けなければならないというものであった。足立氏にとっては、足立郡は頼朝から特別な配慮をもって領有権を給与されたものであり、頼朝以後も特例として幕府の了承を得ていたものと思われる。しかし武蔵支配の強化を目指していた北条得宗は、自らが支配し、名目的ではあるが幕府の議決機関である評定会議において、強引に足立郡は公領であるとの判決を出させたものと思われる。足立氏の嫡流は、三年後に起きた「霜月騒動」の際、安達氏方として挙兵しているが、この足立郡をめぐる訴訟に対する不満が、反北条軍に参加した原因の一つであったことはまちがいのないことであろう。
鎌倉時代を通して足立郡内の庄郷で、北条氏の所領として知られているのは、次の四か所である。 ① 矢古宇郷(やこうごう)(草加市から川口市にまたがる地域) ② 鳩谷郷(はとがやごう)(鳩ケ谷市) ③ 佐々目郷(ささめごう)(戸田市西部から浦和市と蕨市の一部を含む) ④ 大谷郷(おおやごう)(上尾市か)いずれも足立郡を含め、北条得宗の武蔵支配における重要拠点であったことはまちがいない。
以上のように、武蔵国内の多くの所領が北条得宗または北条氏一門の所領となっており、さらに頼朝の幕府創設以来重要な戦力として活躍してきた武蔵武士も、その多くが直接間接の政争などに関連して討伐されてしまったこともあり、わずかに追討をまぬがれた者たちは、北条得宗の被官になるものが続出した。徳治(とくじ)二年(ニニ〇七)五月に行われた北条貞時の「大斎(おおとき)」の参加名簿をみると、九六人の御内人が参加しているが、その中に足立氏・安保(あぼ)氏・浅羽(あさば)氏など多くの武蔵武士の名が見出せる(古代・中世No.一一ニ)。彼らの多くは権力者である北条得宗につながることで、自家の滅亡をかろうじて防いだといえ、鎌倉幕府の崩壊にあたっては、北条氏とともに滅亡したものもなかにはいたが、その大部分のものたちは逆に討幕側に積極的に参加し功績をあげているほどであった。

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