北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第4節 御家人の動揺と得宗

吉見氏の謀反
北条得宗は、 関東諸国のうち鎌倉を含む相模国と、所領が多く点在していた武蔵国を重視し、積極的な統治にあたっていたが、それへの反発をもつ武蔵武士も多く、前述の足立氏の場合のようにひとたびことがあるとまっさきに反北条陣営に参加するという状況にあった。
永仁(えいにん)年間(一二九三~九九)、吉見氏の反乱が起きた。『県史通史編二』Pニ一七によると、永仁四年(一二九六)十一月、吉見義世(よしみよしよ)が謀反の疑いで捕えられ、鎌倉竜(たつ)ノ口(くち)で斬首され、一味の仁和寺の良基僧正(りょうきそうじょう)は陸奥への流罪となったというものである。吉見氏が謀反を起こした理由としては、武蔵武士きっての名門吉見氏の、北条氏専制に対する抵抗といわれている。しかしこの事件をあらためて検討してみると、事件の起きた日時・主謀者名・起こした理由などわからないことが多い。この事件について触れている史料を内容ごとに表にしてみると、表11・12のようになる。
表11 文献史料に見る吉見義世の謀反
資料名日時氏名理由結果関係者
鎌倉年代記裏書
  (北条九代記)
永仁4 ・11・20 吉見孫太郎義世謀反刎首良基僧正、奥州配流
保暦間記永仁4 ・11・20 吉見孫太郎義世
範頼四代孫、頼氏男)
謀反刎首良基僧正、遠流
鎌倉年代記裏書永仁3 ・11・20 吉見孫太郎義世刎首良基僧正、配流
鎌倉大日記
  (生田本)
永仁5 ・5・18 吉見孫太郎源義世誅さる
系図纂要永仁4 ・3・18 (吉見孫太郎義世)謀反誅さる
諸家系図纂
  (『新編埼玉県史』
(永仁4 ・11・20) 『保暦間記』の原文引用(謀反)(刎首)(良基僧正、遠流)
吉見氏系図
  (『北本市史』古代中世資料編)
(永仁4 ・11・20) 『保暦間記』の原文引用(謀反)(刎首)(良基僧正、遠流)
表12 文献史料に見る吉見義春の謀反
資料名日時氏名理由結果関係者
尊卑分脈
  (『北本市史』古代中世資料編)
永仁4 ・3・18 吉見孫太郎義春謀反誅さる「義世」の名はあるが、事件の記載なし
諸家系図纂
  (『新編埼玉県史』
永仁4 ・3・18 吉見孫太郎義春謀反誅さる「義世」の項に事件の記載あり
吉見系図
  (『続群書類従』
永仁4 ・3・18 吉見孫太郎義春謀反誅さる「義世」の項に事件の記載あり
二つの表を見てわかるように、かなり混乱している。まず、表11であるが、事件の発生した日付に四説あることがわかる。永仁四年十一月二十日説が数としては多いが、永仁三年説・同五年説をとっているものも、同四年十一月二十日を唱えている史料にくらべ決して質的に劣るものではなく、その意味からいえば甲乙つけがたい。さらに注目されるのは表12である。これによれば、永仁四年三月十八日に義世の父義春(よしはる)が謀反を起こし、誅伐(ちゅうばつ)されたとある。ついで表12の備考に記されているように、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』には義春の項には謀反の注はあるが、義世には何の記載もされていない。また「諸家系図纂(しょけけいずさん)」と「吉見系図」(『続群書類従』)には、義春が永仁四年三月十八日に謀反を起し、今度は子の義世が同年十一月二十日に謀反を起したと記されている。諸書において、吉見氏が謀反を起したことについては一致しているが、それ以外のことについてはかなり異動が激しいといえよう。


図11 吉見義春・義世略系図

いま吉見義春・義世父子に関する略系図を示すと次の通りである。図11に見られる人名や仮名などについては、諸書ともほぼー致しており、義春と義世とは親子関係であり、『保暦間記(ほうりゃくかんき)』に記されているように、義世は範頼の四代の孫であり(同書には三郎頼氏の子とあるが確認できない)、この両者のうちのどちらかが、永仁年間(一二九三~九九)に謀反を起し、それが失敗し捕らえられたということになる。ただし、義春らがなぜ謀反を起したかという理由になると、明確な答えがなされていない。名族であるというだけでは決め手にはならない。そこで注目されるのが、一味として登場する良基僧正(りょうきそうじょう)である。
この良基僧正で思い出されるのが、文永(ぶんえい)三年(一二六六)に起きた「宮将軍追放」と呼ばれているク—デター事件である。これは幕政の実権をめぐる権力闘争で、宮将軍宗尊(むねたか)親王を中心に、名越氏・北条時宗の兄時輔(ときすけ)らが中心となり計画したもので、結局計画は失敗し、良基僧正は逐電(ちくでん)し、宗尊親王は将軍職を解任され京都に送り帰されたというものである。良基僧正は、摂関家の出身で宗尊親王の護持僧として鎌倉に下向してきた人物で、今回の事件では将軍と名越氏らとのパイプ役をつとめていたらしい。
いずれにしてもほとんど同時期に、名前も僧位も出身寺名もまったく同じという人物が二人いたとは通常考えにく<、同一人物である可能性のほうが高いと思われる。さらに図11をみてわかるように、吉見氏と名越氏とは姻戚(いんせき)関係にあったことなどを総合すると、吉見氏の反乱がいつ起きたのかは不明だが、吉見氏もこの名越氏を中心とするクーデタ—計画に参加し、実際に殺されたのは義春か義世かそれとも両方なのか、そしていつ殺されたのかなどは特定できないが、このことが原因で吉見氏は誅伐(ちゅうばつ)されたと思われる。
この事件の結果、吉見氏の嫡流は衰え、義世の子の尊頼(たかより)は、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』の記載によれば、渋川直頼(しながわなおより)の猶子(ゆうし)になり、さらには南朝方になったとかとあるものの、以後の動向はまったく不明である。ただし、これ以後も武蔵国での吉見氏の活動が見られることから、どの系統のものかは不明であるが、義世のあとをうけて活動していたと思われる。

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