北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第1節 治承・寿永の内覧と武蔵武士

平氏追討と範頼
関東に覇権を樹立した頼朝と同様に、木曽の源義仲(みなもとのよしなか)ら、各国の源氏も挙兵して、いわゆる「寿永の宣旨」を背景として寿永二年(一一八三)末までに東国一帯は、頼朝軍の支配するところとなった。この宣旨は野木宮合戦後の義仲在京下の混乱のもとに発せられたものであり、世にいう「治承寿永(じしょうじゅえい)の内乱」下での出来事である。寿永(じゅえい)二年七月末、木曽谷に起こった源義仲らの勢力は、頼朝の叔父源行家(ゆきいえ)と共に京都の平氏を西国へと追い落とし、京都を占領した。後白河上皇(ごしらかわじょうこう)はひそかに比叡山(ひえいざん)に逃れ、義仲と連絡するなど巧妙な保身策をと
り、直ちに平氏追討を命じた。
折からの飢饉の中、兵糧に窮した入京軍は統制が乱れ人心を失った。御白河院の武士には武士を対抗させる策の前に、義仲は追い詰められ、十一月にはク—デターを敢行し京の実権を掌握した。しかし、彼とともに入京した東国源氏の大半は離反し、義仲は孤立していた。ここに、頼朝は義仲打倒の軍を上京させたのである。頼朝の上京軍は、二人の異母弟範頼・義経を大将軍として、勢多口 (滋賀県大津市)・宇治口 (京都府宇治市)の両手に分れて京都を攻撃した。義仲は志田義広を宇治口、今井兼平を勢多口に派遣し防戦したが、たちまち破られ、入京した義経は義仲の監視下にあった後白河院を奪還した(古代・中世No.五七)。
この合戦の折に、義経の旗下で、宇治川渡河一番を競ったのが佐々木高綱と梶原景季であるが、現在の比企郡吉見町出身の大串重親は畠山重忠の馬にしがみついて渡河を果たし、徒立ち(徒歩)先陣の名を挙げた(古代・中世No.五八)。義仲は京都から北国に向け近江国へ脱出したが、粟津(滋賀県大津市)で戦死した。こうして、頼朝軍が京都を制圧し、平氏追討の第一線に立った範頼は、義経とともに大将軍として、元暦元年(一一八四)二月、摂津国一の谷(兵庫県神戸市)に平氏を敗北させる。
範頼・義経軍は、飢饉により欠乏する兵糧に悩みながら、文治(ぶんじ)元年(ーー八五)三月、平氏を長門国(ながとのくに)(山口県)壇(だん)ノ浦(うら)で破り、滅亡させた。頼朝はこの功によって従二位に叙せられ、その政治的権力を一層高め、武家の楝梁の筆頭となったのである。
元暦元年六月の小除目(じもく)で武蔵・駿河・三河三か国の知行国主となった頼朝は、その六月、源氏の「御ー族」である信濃源氏の平賀(ひらが)義信を武蔵守に推挙し任命した(古代・中世No.五九)。これは、頼朝が本拠の鎌倉に最も近く、かつ御家人の多い武蔵国を重視していたことにほかならなかった。こうして治承四年以来、頼朝が実力で平氏を倒し、自ら手中にした武蔵国支配を京都の後白河院から、事実上、公認されたのである。これを関東御分国(ごぶんこく)といい、幕府滅亡に至るまで武蔵国は終始関東御分国(鎌倉殿知行国)の位置を占めた。幕府の首都となった鎌倉のある相模国も、翌文治元年以降、永代の関東御分国となった。従って、武蔵国は幕府にとって最重要地域であり、武蔵武士は鎌倉政権を支える主柱であった。
一方、同じ小除目で、源範頼が三河守に任官した(古代・中世No.五九)。三河国は武蔵・駿河両国と同じく頼朝知行国と思われるが、当国は範頼の単独国務であった。

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