北本市史 通史編 古代・中世

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第4章 鎌倉幕府と北本周辺

第2節 幕府政治と御家人

武蔵国守と在庁官人
平氏政権のもとでは、武蔵国は平清盛が知行国主であった。また武蔵守には平家一門の就任が多く、平治の乱(一一五九)後についてみると、永暦(えいりゃく)元年(一一六〇)二月から仁安二年(一一六七)十二月までは清盛の子知盛が(『公卿補任』)、その後は清盛の弟頼盛の子知重が(『兵範記』)、源頼朝挙兵時の治承四年(一一八〇)には知度が(『山槐記』)、次いで知盛の子知章が武蔵守になっている(『吾妻鏡』)。この間、平家外としては『玉葉』承安三年(一一七三)十月九日条に「前武蔵守為頼」の記載も見られるが、平治の乱以降武蔵国は頼朝の知行国になる元暦元年(一一八四)までは、おおむね平氏一門の支配下にあった。
元暦元年二月、武蔵守平知章が義経に討ち取られた後、武蔵国は頼朝が知行国主になり、支配形態は一変した。同年六月五日、頼朝の推挙により源氏一門の範頼が三河守に、広綱が駿河守に、平賀義信が武蔵守に任命され、このうち駿河・武蔵両国は頼朝が後白河法皇から与えられた知行国であった。頼朝の知行国は関東御分国とも呼ばれ、頼朝が源氏一門や有力御家人を名国司として推挙し、国務は目代を派遣して支配させた。このため国司は名目上の官職に止まり、治安維持や軍事指揮権は別に補任された守護が当った。ただし、武蔵国の場合は守護が置かれず、名国司平賀義信が国務を沙汰していた点が他国と異なっていた。武蔵は相模と並んで一貫(かん)して鎌倉政権の基盤となり、幕府滅亡まで関東御分国の地位は保たれた。後に両国の国守は、北条氏の有力者に独占され、その多くが執権・連署であったため「両国司」と呼ばれ(『沙汰未練書』)、幕府政権にとって特異な位置にあった。この武蔵国司に補任された平賀義信は、新羅三郎義光(義家の弟)の孫で、甲斐源氏の出身である。頼朝の挙兵時、甲斐源氏の果たした役割は大きく、頼朝政権は甲斐源氏との連合政権ともいわれる程であるから、義信の任用は頼朝の対甲斐源氏策の一環であったといえよう。
義信の武蔵守在任期間は明らかではないが、『吾妻鏡』建仁三年(一二〇三)十月八日条に「前武蔵守義信」とあるので、この時には武蔵守を離れていたことがわかる。義信の事蹟は『吾妻鏡』に詳しいが、それによれば頼朝の重臣として諸行事への列席や社寺参詣、供養の供奉(ぐぶ)はもちろんのこと、武蔵守としてさまざまな懸案の処理に当たっていた。その第一は度重なる戦乱で荒廃しきっていた武蔵国の生産力を回復し、乃貢(のうこう)(年貢)の確実な収納にあった。当時諸国は治承四年以来の争乱で世情騒然としており、農民も農業を怠り、特に武蔵など関東御分国は関東の武士が「敵人を討たんがために数度合戦し、都鄙(とひ)の往反(おうへん)、今にその隙な」き状態にあった。そこで頼朝は文治二年(一一ハ六)三月朝廷に対し、関東御分国のこれまでの乃貢未済分の免除と、同年以降は国力に応じ乃貢を励済すべきことを要請したと伝えている。頼朝の軍事力の中心として各地に転戦していた武蔵御家人の所領荒廃もこの例に漏れなかったであろうから、義信は渾身の力をもって国政の安定と生産基盤の整備に尽したに違いない。
次いで同年七月には、河越庄の年貢対桿(たいかん)事件の処理を果断に行った。河越庄は河越氏が開発した荘園で、河越能隆のころ後白河法皇に寄進され、法皇は新日吉社(いまひえしゃ)の創建された永暦元年(一一六〇)十月以降、同社に再寄進し、当時は新日吉社領荘園となっていた。文治元年十一月、義経事件に連坐して河越重頼•重房父子が誅殺されると、河越庄は収公され、同氏の手を離れて重頼の老母に預けられた。その翌二年、河越氏による年貢対桿事件が起ったのである。建久三年(一一九二)十二月には、生誕の実朝の後事を依頼した重臣十二人の筆頭に挙げられるなど、義信に対する頼朝の信頼は厚かった。
義信の武蔵国務の成敗がきわめて見事であったため、頼朝は讃辞を呈している(古代・中世No.七二)。それによれば義信の施政は「尤も民庶の雅意に叶」っており、今後武蔵の国司たる者は、義信の時の前例を守って行うようにと、数々の良き点を箇条書きにして武蔵国府の壁に掲げたという。義信のあとの武蔵守には、義信の子の朝雅が任命された。その時期は明らかではないが、おそらく敬慕していた頼朝の死去(正治元年)を契機として義信が武蔵守を辞任し、そのあとに朝雅が任命されたと考えられる。
この後武蔵守は、時政の後妻牧の方の一件で時政が失脚し、平賀朝雅は討ち滅されて、承元四年(一二一〇)には義時の弟時房が就任し、以後鎌倉時代を通じておおむね北条一門が武蔵守を独占することになる。

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