北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第3節 関東府の滅亡と古河公方の成立

永宰(えいきょう)の乱と武蔵武士
永享年間(一四二九~四一)に入ると、足利義教(よしのり)の新将軍就任にともない、持氏の反幕府行動は表面化し、幕府が使用していた「永享」年号を用いず「正長(しょうちょう)」年号をそのまま使用するなど、幕府と関東府間の政治的緊張が高まり、京都では持氏軍の上洛がたびたび噂されるほどであった。しかし、関東管領上杉憲実側の強い諫止(かんし)もあって、永享三年(一四三一)には持氏が近臣の二階堂盛秀(にかいどうもりひで)を遣わして再三にわたり謝罪した結果、一応幕府と関東府との関係は平静に戻った(「満済準后水記(まんさいじゅごうにっき)」)。
永享五年(一四三三)になると、持氏は甲斐の武田家と駿河の今川家のそれぞれの家督継承問題に介入し、同六年には鶴岡八幡宮に、「武運長久・子孫繁栄」と敵対勢力の討伐成就などを祈っての血書の「願文(がんもん)」を捧げ(「鶴岡八幡宮文書」)、同七年には常に幕府側として行動していた篠川(ささがわ)御所足利満直を攻撃するなど、持氏は再度公然と反幕府的な政治行動をとり出した。ついで持氏は体制のさらなる強化に努め、相模国守護を上杉定頼より近臣中の近臣である一色持家に改め、武蔵・下総などにある政所(まんどころ)料所への命令を、政所執事の二階堂盛秀を通して直接行い、財政面での安定化を策した。
一方関東公方独裁を目指す動きをとる持氏と幕府との協調を政治方針とする憲実との関係は、次第に対立しはじめた。永享九年(一四三七)には、持氏による憲実追討が公然と噂されるようになったため、憲実は藤沢(神奈川県藤沢市)に逃れたが、この時は幕府の仲介もあって両者の争いは一応収まった。しかし同十年六月、持氏が子息を鶴岡八幡宮で元服させ、将軍の一字をもらわず、「義久(よしひさ)」と名乗らせることを強行したことから、両者の関係は決定的なものとなり、結局同年八月、身の危険を感じた憲実は鎌倉より上野国に逃れた(『鎌倉大草紙』)。
憲実からの注進を受けた将軍足利義教は、追討軍を関東に派遣する一方、関東府に隣接する陸奥(むつ)・越後(えちご)・信濃(しなの)・駿河(するが)等の国々の守證たちにも出陣を命じた。同年九月には、幕府軍と持氏軍との合戦が箱根などで行われたが、幕府軍は各地で持氏軍を討破った。軍事面での劣勢を挽回(ばんかい)しようと持氏自身が海老名(えびな)(神奈川県海老名市)に出陣したが、武州一揆や三浦時高らが幕府側となったこともあって、結局は劣勢の回復にはならなかった。 
この一連の軍事的衝突の際、さきに持氏の使者として活動した吉見範直の名は見えないが、「浅羽本吉見氏系図」によれば、範直の子息に吉見冠者希慶という者がおり、「永享十年の持氏の乱の時に上杉のために殺された」との注記がある。この記載を他史料より明らかにすることはできないが、父範直の行動や足利成氏の家臣に「吉見三郎」の名が見えること(古代・中世No一六〇)などからすると、希慶に関する記述もある程度の事実を伝えていると思われる。
さて、さきに上野国に逃れていた上杉憲実が、上野国や武蔵国などの軍勢を率いて武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)まで進軍してきた。この結果、海老名に在陣していた持氏は、幕府軍と上杉軍とにはさまれる格好になり、それに加えて幕府側となつた三浦氏によって鎌倉が占領されてしまい、持氏軍は完全に孤立してしまった。
持氏はついに幕府に降伏し、鎌倉の永安寺(ようあんじ)に幽閉された。しかし、持氏後の政治的混乱を避けたいとの政治的判断からの憲実の持氏助命嘆願は、幕府に聞入れられず、永享十一年(一四三九)二月十日、持氏らは一族とともに滅ぼされた(『建内記』)。ここに基氏(もとうじ)以来続いてきた関東府は、いったん滅亡した。
この際、持氏の子息のうち長男義久は鎌倉の報国寺にて自害したが、安王丸と春王丸は下野に、永寿王丸(のちの古河公方足利成氏(しげうじ))は信濃へとそれぞれ逃れた。

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