北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第3節 関東府の滅亡と古河公方の成立

古河公方の成立と武蔵 

図14 古河公方略系図

(数字は古河公方歴代)

結城合戦後、上杉憲実が引退したため、扇谷(おうぎがやつ)上杉持朝とその家臣太田資清(すけきよ)(法名道真(どうしん))、山内上杉氏の家臣長尾景仲(ながおかげなか)らにより政治が運営されていた。しかし、彼らの努力にもかかわらず、関東公方の不在という政治状況はいかんともしがたかった。
幕府はこの状況の打開のため、関東公方の復置を決定し、信濃にいた持氏の遺児永寿王丸を関東公方とした。永寿王丸は宝徳(ほうとく)元年(一四四九)八月元服して左馬頭(さまのかみ)に任官し、「成氏」と名乗り、関東公方としての活動を開始した(『康富記(やすとみき)』)。
成氏の就任で持氏の近臣らは意気揚ったが、実質的に関東の政治をみてきた両上杉氏、とくにその家臣の(数字は古河公方歴代)太田・長尾両氏の反発は大きく、関東公方派と両上杉派との対立は政治の主導権をめぐって表面化した。
宝徳二年四月、両者の間で抗争が表面化し、太田・長尾両氏を中心とする両上杉軍と成氏軍は、江の島などで合戦したが、武州一揆や千葉氏などの援助をうけた成氏側が勝利を得た。同年八月には、幕府からの働きかけもあって両者の間で和睦(わぼく)が成立した(『鎌倉大草紙』)。


写真40 足利成氏書状 豊島宮城文書

(国立公文書館内閣文庫蔵 埼玉県県史編さん室提供)

鎌倉に戻った成氏は、「代始(だいはじ)めーの「徳政(とくせい)」を行った(「鶴岡八幡宮文書」・「大庭文書」。これは慣例どおりの政治行動であり、戦後の混乱を収束(しゅうそく)させ、いまだに隠然たる勢力を保有している有力寺社への配慮を目的としたものであった。しかし徳政に関係のあった国は、相模・武蔵のいずれも上杉氏が守護であった国であることから、成氏の真の狙いは、両国における上杉勢力の削減をはかったものであった。さらに意気あがる成氏の家臣らは、上杉氏関係の人物が所有する所領への違法行為を盛んに行った。したがって両派の対立は日増しに深まり、一触即発(いっしょくそくはつ)の状態となっていた。
享徳(きょうとく)三年(一四五四)十二月二十七日、足利成氏は、関東管領上杉憲忠(のりただ)を鎌倉て殺害した(『康富記(やすとみき)』)。これを契機に両派は武力による戦闘を開始した(享徳の乱)。
両上杉軍は鎌倉より武蔵国まで後退し、ここで武州一揆(いっき)などを加えて再度成氏軍と立川原(東京都立川市)などで戦ったが敗れ、常陸の小栗城(茨城県真壁郡協和町)に逃れた。成氏は、武蔵の村岡(熊谷市)や古河(茨城県古河市)をへて進軍し、享徳四年(一四五五)五月には小栗城を攻め落とした。この年閏四月二日付の足利成氏書状(古代・中世No一六〇)は、このときの軍事行動に関係するものであり、豊島太郎に対し成氏とともに出陣した吉見三郎に同道し合戦に参加するように要請したものである。ここにみえる吉見三郎の実名は不明だが「三郎」を名乗っていること、成氏の近臣として活動していることなどから、持氏期に近臣として活躍した吉見範直に近い人物であることは容易に推測できる。
さて上杉氏よりの注進(ちゅうしん)を受けた幕府は、成氏追討を決定し、再度駿河の今川氏や信濃の小笠原氏に出陣を命じた。今川範忠らの追討軍は、康正(こうしょう)元年(一四五五)六月には鎌倉を攻撃し、成氏方の木戸氏を破った。鎌倉から逃れた木戸氏らは、少府(しょうぶ)(南埼玉郡菖蒲町)をへて古河に入った。
鎌倉を奪われた成氏は、これ以後古河を根拠地とした。この地は、成氏方の有力武将の小山氏・築田(やなだ)氏・山川氏らの拠点に近く、大田庄や下河辺(しもかわべ)庄など関東府の直籍領が集中しているなど、成氏にとっては非常に重要なところであった。成氏以降、政氏・高基・晴氏・義氏の代々がこの地を本拠地としたところから、成氏以降は「古河公方(こがくぼう)」と呼ばれた。

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