北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第3節 関東府の滅亡と古河公方の成立

古河公方足利成氏と両上杉氏の確執
康正元年十二月、成氏軍は、只木山(ただきやま)(栃木県足利市)を攻略した。只木山から逃れた上杉軍は、武州一揆とともに騎西(きさい)城(北埼玉郡騎西町)に入った。一方成氏は、関宿(せきやど)城(千葉県東葛飾郡関宿町)に築田(やなだ)氏を入れ、野田城(茨城県猿島郡五霞(ごか)村)に野田持忠を入れた後、諸将を率いて騎西城を攻撃し、これを落とした。康正二年正月には、下総の市川城(千葉県市川市)を攻略し、下総の西南部を支配下とした。さらに同年九月には、武蔵の岡部原(大里郡岡部町)で越後の上杉軍と戦い、破った。この結果、上杉氏の影響力が弱まり、成氏の家臣の築田河内守が足立郡の大半を占領したと記されている(『鎌倉大草紙』)ほどに、成氏の威光が武蔵国全体に及ぼうとする状況となった。

写真41 鎌倉大草紙

(国立公文書館内閣文庫蔵)

幕府は、体制の立て直しのため、長禄(ちょうろく)二年(一四五八)七月、将軍足利義政の実弟政知(まさとも)を関東に下向させた。しかし政知一行は鎌倉に入れず、伊豆の堀越(ほりごえ)(静岡県田方郡韮山(にらやま)町)に本拠を構えた。いわゆる「堀越公方」である。政知とともに下向して軍事面を担当したのが渋川義鏡(よしあき)である。義鏡は、成氏に対抗するため蕨(蕨市)に城を構えたといわれている(『鎌fr大草紙』)。
当時鎌倉で実際に政治を行っていたのは、太田道真と長尾景仲の二人であった。太田氏は、丹波国太田庄(京都府亀岡市)を名字地とした清和源氏の出で、建長(けんちょう)四年(一二五二)の鎌倉幕府第六代将軍となった宗尊(むねたか)親王に従って下向した上杉重房(しげふさ)について来たといわれている。「別本太田系図」によれば、資通(しげみち)のとき武蔵の岩淵(いわぶち)(東京都北区)や志村(しむら)(束京都板橋区)などを拝領しており、資房(すけふさ)のとき扇谷上杉氏に仕えたとされている。資房の子が資清すなわち太田道真である。当時の道真は、山内上杉家に仕えていた長尾景仲とともに「東国不双の案者」(『鎌倉大草紙』)と呼ばれていた人物であった。道灌(どうかん)はこの道真の子で、資長(すけなが)(一説には持資)といい、康正(こうしょう)元年(一四五五)には家督を継ぎ、本格的な政治活動に入った。
さて、両上杉氏は反撃に転じ、太田父子が中心となり、長禄元年(一四五七)には江戸城・河越城・岩付城を完成させた(古代・中世No一六三)。従来からの武蔵国五十子(いかつこ)(本庄市)・深谷(ふかや)(深谷市)・松山(比企郡吉見町)などの拠点とともに、武蔵国東北部を拠点とする成氏軍を包囲する状況を作りあげた。
しかし、長禄三年(一四五九)に長尾景仲・山内上杉房顕(ふさあき)・扇谷上杉持朝(もちとも)などが相次いで死去したため、両上杉側はさらに弱体化してしまった。
さらに文明八年(一四七六)には、山内上杉氏の家臣の長尾景春(かげはる)が反乱を起した。
これに対し太田道灌(どうかん)は、まず景春与党の豊島氏を攻撃し、ついで挙兵した国人(こくじん)らをつぎつぎと追討し、文明九年(一四七七)には再度豊島氏を討破り、武蔵の中南部を自己の支配下とする(「太田道灌状」)など、同十二年六月ごろまでには乱を鎮圧した。
長尾景春の乱後の道灌の声望は、日増しに上昇していったが、逆にその勢威に不安を抱く者もおり、主君の扇谷上杉定正(さだまさ)もその一人であった。山内上杉顕定(あきさだ)は、扇谷上杉家の勢力が拡大するのを阻(はば)もうとして定正に道灌の中傷(ちゅうしょう)を行った。道灌の行動に不安を抱いていた定正は、文明十八年(一四八六)七月ついに道灌を暗殺してしまった。
道灌一人で支えられていた扇谷上杉家は、道灌の子の資康(すけやす)をはじめとして、多くの武士たちが離反したため、急激に衰えていった。この状況をみた山内上杉顕定は、長享(ちょうきょう)元年(一四八七)扇谷上杉定正を攻撃した結果、今度は扇谷・山内の両上杉家の全面対決となった。そして、この戦いが両家の勢力の弱体化を招き、結局は北条早(そううん)の関東進出を可能とする要因をつくったのである。

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