北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第4節 南北朝・室町期の北本周辺

河田郷領家職
応永四年(一三九七)七月二十日足利氏満は、鎌倉の円覚寺塔頭(たっちゅう)の黄梅院(おうばいいん)に、足立郡殖竹郷(うえたけごう)(大宮市植竹町)・河田郷(桶川市川田谷)・淵江郷石塚村(草加市)内にある足立大炊助(おおいのすけ)跡などを寄進した(古代・中世No一四四・ー四五)。
この足立大炊助という人物は不明であるが、「足立氏系図」(古代・中世P四六四)によれば、足立遠元の子の元重は、淵江郷を開発し「淵江田内左衛門尉」を、同じく遠村は「河田谷」を名乗ったとあり、両地名とも史料の記載と一致していること、足立姓を名乗っていることから、足立大炊助は足立氏の子孫と推測される。
足立氏は、弘安八年(一二ハ五)十二月に起きた「安達泰盛の乱」、いわゆる「霜月(しもつき)騒動」に関係して嫡流は討伐され、その所領所職の大部分を没収されたが、乱に参加しなかった庶流は生き残り、あるいは御家人として、あるいは北条得宗(とくそう)の被官(とくに「御内人(みうちびと)」と呼ばれた)として活動していった(古代・中世No一〇九・一一二・一一三)。足立大炊助がどの系統に属するかは不明だが、足立遠元を祖とする足立氏の子孫にはまちがいなく、ほそぼそながら南北朝・室町期を通じて、足立氏が足立郡内に所領所職を所有していたということになる。
なお河田郷は、正長(しょうちょう)元年(一四二八)や長禄(ちょうろく)元年(一四五七)にも黄梅院領としてその名が見えており、このときまでは黄梅院領として存続していたのであろう(古代・中世No一五七・一六二)。

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