北本市史 通史編 古代・中世

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第5章 関東府の支配と北本

第4節 南北朝・室町期の北本周辺

戸守郷と農民
正平七年(一三五二)二月六日、足利尊氏は高師業(こうのもろなり)に勲功の賞として馴馬(なれうま)郷など四か所の替地として、下野国足利庄内大窪郷・生河郷・戸森郷・小江郷を給与した(古代・中世No一二三)。戸森(ともり)郷は戸守とも書き、現在の比企郡川島町戸守にあたる。
貞治四年(一三六五)十月には戸守郷をめぐり、高師業代行俊と平一揆の構成員の高坂重家との間で争いが生じ(古代・中世No一二ハ)、結局高坂氏側の主張が認められ、戸守郷は高坂氏に返された。しかし高坂重家は、応安元年(一三六八)に起きた平一揆の乱の主謀者の一人であり、乱終結後戸守郷は没収され、下野国足利の鏤阿寺(ばんなじ)に寄進された(古代・中世No一二九・一三〇)。さらに永徳二年(一三八二)三月八日付で、同郷は小山(おやま)義政の乱のさい功績のあった高師満(もろみつ)(師業の子)に還補(げんぽ)された(古代・中世No一三六~一三八)。ただしこの返還は条件つきであったらしく、至徳三年(一三八六)十月七日付で、足利氏満により高坂重家跡として再度鏤阿寺に寄進された(古代・中世No一三九~一四一)。以後戸守郷は、鏤阿寺領として存続してゆくことになった。
享徳二年(一四五三)四月十日、鏤阿寺代官十郎三郎の注進状(古代・中世No一五八)によれば、十郎三郎は戸守郷に隣接する尾美野(おみの)(川島町上小見野・下小見野)・ハ林郷の両郷と用水をめぐる争いを起した。この用水は、都幾川(ときがわ)の水を川島町長楽(ながらく)で取水する通称「長楽用水(ながらくようすい)」と呼ばれているもので、尾美野・八林両郷も利用していたが、堰は戸守郷内にあり、それをかってに止めてしまったというものであった。従来このような用水問題があった場合には、戸守・尾美野・八林の三郷の代表である「老者(おとな)」と呼ばれる有力農民らの話合いによって解決が図られるのが普通であった。しかし今回の場合は、尾美野の「老者」が同意の証判をすえなかったため武蔵国府へ調停を依頼した。尾美野・八林両郷ともに武蔵国守護上杉氏との関係があり(八林郷は上杉氏の所領であった)、上杉氏が実権を握る国府に訴え、用水問題を有利に解決しようとする尾美野・八林側の狙いがあったものと考えられる。

写真43 戸守郷の現況 川島町

ところで鎧阿寺による戸守郷支配は、鍰阿寺にある子院の八つの坊による分田(ぶんでん)支配(田畑などを均等に分け、くじなどで各坊の管理地を決めた)が行われていたが、鶴岡八幡宮領であった佐々目郷と同様に、実際には寺から委託された代官が現地に行って管理を代行する方法がとられていた。従って間接支配であったことから、外部からの影響をうけやすくさまざまな問題が生じやすかった。とくに十五世紀に入ると、上杉禅秀の乱→関東府の滅亡→結城合戦→古河公方の成立というように関東の政界を二分するような内乱があいつぎ、それにともない権力側の支配力が弱体・低下し、各地で農民らによる反領主的行動が表面化してきた。
戸守郷においても例外ではなかった。その一は、前述した用水争いが起きた前後に、戸守郷の有力農民らを中心とした年貢減免要求が起り、結局農民らが一致団結して耕作を放棄しても減免を勝ち取ろうとする状況をみるに及び、寺側としては打つ手がなく、寺側がその主張をやめ農民側の減免要求が通ったというものである(「鍍阿寺文書」年不詳閏二月廿二日付戸守郷代官希宥書状)。
ついで、今度は戸守郷が合戦に巻きこまれて戦場となった結果、農民たちがその対策に追われ耕作できず不作となったので、年貢の減免を認めて欲しいというものであった(「鏤阿寺文書」年不詳十月廿三日付戸守郷代官希幸書状)。結局代官希幸の努力の結果、三分の二の年貢を納入することで結着したが、それとて農民ら全員が納入したわけではなく実質的には農民側の希望にそう結果となった。
しかし以上のような農民側の主張がある程度通ったということも、佐々目郷のときと同様、戸守郷でも領主である鍰阿寺側に農民らを寺に従わせうる武力などの強制力を実質的に持たなかったことから招来したものであった。従って武力を背景として、農民支配の徹底化をめざした戦国時代には、このような農民側の動きは見えなくなってしまう。
いずれにしても、市域に近接する地域においても、室町時代に限定つきではあるが、農民らが年貢の減免を要求するなどの農民運動を起していたのであった。

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